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マルコの福音書1章-1

2024年8月30日

マルコの福音書1章-1(1-13節)
=本章の内容=

❶バプテスマのヨハネの宣教活動❷イエス様の受洗➌荒野での誘惑

=ポイント聖句=

そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(1:10-11)

=黙想の記録=

マルコの福音書は異邦人向けに書かれたもので、異邦人には理解しがたい「ユダヤ教」については極力説明を省いています。またマルコの福音書は「しもべとしてのメシヤ」を中心に描いていると言われています。本章はその冒頭の前書き的な要素があり、ストーリー展開が早くなっていますが、物語の掴みの部分として、「福音の主題」「福音の中心人物とその行動」が凝縮して書かれています。

❶1-8節:バプテスマのヨハネの宣教活動・・・冒頭でマルコはこれから著わす内容が思想や哲学、ましてや神話ではなく、「イエス・キリストの福音」であると断言しているのです。神の子イエス様の足跡を辿る史実を記録しただけでなく、その生涯がメシヤ(救い主)を表現しているのです。イエス様の足跡を辿ることで「魂の救い」や「人としての歩み方」を学びとりまた悟ることができるのです。これこそが人類にとっての大いなる「朗報(福音)」なのです。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす・・・。(マラキ3:1)」は預言者マラキの言葉で「荒野で叫ぶ者の声がする(イザヤ40:3)」は預言者イザヤの言葉です。新改訳2017版はまとめてイザヤの書と括ってしまっていますが、KJVは「預言者たちに書かれた」となっています。「荒野で叫ぶ声」とは記述されている通り「バプテスマのヨハネ」のことです。来臨するメシヤは最期の預言者を伴って出現するという預言通りの展開だったのです。バプテスマのヨハネの風貌や生活の様子は当時の宗教家とは真逆でした。この世の富や栄誉からかけ離れていたからです。それが当時の宗教に飽き飽きとしていた民衆の目には新鮮に映っていたのです。バプテスマのヨハネが説いたのは「この世を基準としていきる生活習慣を改め、主なる神に従う生活に戻れ」ということです。一方当時の宗教家が説いていたのは「ローマ帝国」に恭順し差しさわりの無い無難な生活に生きることだったのです。こんな教えの中に「魂の安息」など見つけられるはずがないのです。しかしバプテスマのヨハネが説いたのはあくまでも「方向転換」であって「真の行く先」を述べることはありませんでした。その意味で「(メシヤへの)道を整える」者であったのです。

❷9-11節:イエス様の受洗・・・レビ人が公式の奉仕を開始する年齢は30歳です。イエス様が齢30歳でバプテスマのヨハネから洗礼を受けるということは、公式な活動を始める適齢期であったからなのです。マルコはイエス様の誕生から30歳になるまでの過程を省略しています。すでにマタイ・ルカの福音書が世に出回っているので、幼少期から青年期に至るまでのことはそちらを見てくれと言わんばかりなのです。要するにマルコは必要最小限の事しか書いていないのです。ところがポイント聖句(10-11節)で取り上げた様にイエス様の受洗は省かれていません。古のイスラエルの国王たちは預言者によって油注ぎを受けることで国王宣言をしてきました。罪無いお方が「悔い改めのバプテスマ」を受ける必要はありません。ここでイエス様が受洗をされるということはご自身が「人間」であることをわざわざ宣言をされたかったのです。さらにイエス様が公生涯を開始されるのにあたり人間の油注ぎは必要ありません。マルコがここで表現したかったのは「救世主にして王の王、主の主」である方には「天からの油注ぎ」があったことなのです。人間と天使たちにために「鳩の様な形」という可視的な状態で聖霊が天から降りて来られる様子こそは「天からの油注ぎ」を表現しています。また「天からの声」は正に主なる神(=父なる神)の声。つまり人によるのではなく真の神様による「国王宣言」だったのです。ところが天からの声は「すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(共同訳)」「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(リビングバイブル)」と言うものでした。「わたしが任命し派遣した全権大使」ではなく「わたしの最愛の息子」です。主なる神様のお心を持っておられる聖なるお方が人間として誕生したのです。

➌12-13節:荒野での誘惑・・・ギリシャ神話では全知全能の神ゼウスは女神や人間の女性との間にアポロなどを筆頭に沢山の子供たちが登場しますが、全て人間臭い人間ばかりで凡そ「神聖」を感じることはできません。彼らは人間の欲求を追求していたに過ぎないのです。つまりギリシャ神話の神々は「人間の想像物」に過ぎないのです。この呆れた神々とは全く異なる様子を紹介したのがイエス様の「荒野での誘惑」だったのです。マルコはここでも最低限のことしか記していません。この世の支配者「サタン」からの誘惑の矛先は、全てイエス様の「公生涯の目的を問うもの」、つまり「神の子であることの証明」にありました。この荒野での試みについては黙想の記録「ルカの福音書4章」を参照してください。