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ルカの福音書24章

=本章の内容=

復活のイエス様に出会う➊女性たち➋二人の弟子➌エマオの弟子たち➍十一使徒(エルサレム)

=ポイント聖句=

それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(24:27)

=黙想の記録=

●復活のイエス様に出会った人物の順番は、マリヤ、次に使徒ではない二人の弟子、最後に十一使徒です。ルカはこの時点では弟子である女性たちは空っぽの墓だけを確認しただけでイエス様には直接会っていないのです。この順番がなぜ必要だったのでしょうか。女性の地位の低さは前述したことがありますが、近代の日本同様男尊女卑は露骨な物でした。よほどの著名人でなければ、女性の証言など信じる男性はまずいません。その女性に復活のメッセージを託すことができたということは、主にある兄弟姉妹の集う教会では、新しいルールが実行されようとしていたからなのです。

●エルサレムから11km南東にあるエマオに向かう弟子は、すでにナザレ派から離脱し古巣に戻ろうとしていたのです。この二人の弟子には、エルサレムに留まりナザレ派を守りぬこうという十一使徒ほどの責任感が感じられません。私はここにもこれから出発する教会の新しいルールを見るような気がします。つまり、旧約時代では、「大祭司や預言者や王達など」一部の特権階級にだけご自身を表された神様は、この教会では信じる全ての者に等しく表れてくださる方であることを示された証拠なのです。仮に直ぐに十一使徒に姿を現した場合、「復活を本当だと思い込んでいる狂信的な使徒たち」に説き伏され、強引にグループに引き戻される、という危惧をもつことでしょう。

●この二人にとってイエス様が十字架に掛けられ命を落とされた事実は認められても、それ以上は受け入れがたかったのです。ここにこの二人を含む弟子たちの曖昧な信仰が見て取れます。ところがイエス様はここぞとばかりに「十字架に掛かって死にそして今甦っているのだ。だから急いでエルサレムに戻れ。」などという強引な主張はなさいません。それどころか、根城に帰ろうとする、
気弱な者達の足取りに合わせ、また彼らの理解に合わせ、受難のメシヤとその栄光について旧約性を用い客観的に、説明してくださったのです。ここに基督者全員のデボーションに関する新しい原理が含まれているとは思えませんか。自宅等での個人的なデボーションは、だれにでもまたどんな信仰レベルであっても可能であることをです。エマオ途上のご様子はもう一人の助け主「聖霊」の姿を表現された物でもあります。

●ところで、二人の弟子はなぜすぐにイエス様と認識できず、エマオの家でようやくわかったのはなぜでしょう。ここには二つの要因が考えられます。第一は、復活された「イエス様のみ顔やお声」が、ご本人と認識できないほど変わっていたから。第二は、絶望感に打ちのめされ、死んだはず人間が甦るなど到底理解できず、また古巣に帰って何をしたらよいのかに気をもんでいたから。と考えられます。

●エルサレムにいる十一使徒と仲間たちの元に、喜び勇んで戻るおのの、誰も相手にしてくれなかったようです。そこに矢庭にイエス様がすうっとドアを通り抜け皆も前に立ったのです。極限状態に置かれていた彼らは幻覚を見ていると思ったのは当然です。そこでイエス様は、出された魚を頬張ると弟子たちは、懐かしさと同時に安堵感が湧いてくるのでした。

●弟子たちをベタニヤに連れて行きます。このベタニヤはオリーブ山山麓にある村で、ここで救いに導かれた多くの弟子たちが待機していたからです。ルカは天に召されたという言葉を使わずに「彼らから離れて行かれた」と書いています。何か中途半歩な気持ちにさせますが、これも次の「使徒の働き」への伏線と思われます。