ルカの福音書23章-2

ルカの福音書23章-2
=本章の内容=
➋クレネ人シモン➌十字架の御業➍埋葬
=ポイント聖句=「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。(23:37~38)
=黙想の記録=●ゴルゴダの丘へ向かと途中、クレネ人シモンが捕まえられ、無理やりイエス様の十字架(縦木の方)を担がせるのです。クレネ人は一説によればパウロがローマ書で紹介している「アレキサンデルとルポス」の父と言われています。恐らく彼もこの時に信仰を持つことができたのでしょう。再度述べさせていただきますが、このシモンの一件から、私たちが背負う十字架とは「背負わなければならない困難」の事と言い切ってしまう方がいますが、本来的な意味とはかけ離れています。ところで、シモンと言う名はどこかで聞いたことがありますね。シモンペテロですね。22章のペテロの裏切りで、彼はイエス様から遠く離れていきましたが、このクレネ人シモンは、イエス様のうしろをただ黙ってついていきました。ルカはこうしたところでも面白い対比を読者に示しているかのようです。
●ルカの十字架の扱い方は独特です。まず、外側にはイエス様の女性のお弟子さんたち、そしてイエス様に同情を寄せていた議員、そしてその内側には悪口雑言をサタンの代わりに浴びせかけていた「指導者」、そしてイエス様ご本人よりも、魔法の衣に関心を持っていた十字架刑の執行人、彼ら兵士を統率する百人隊長。そして、イエス様の両脇にいた二人の犯罪人です。ルカは特にイエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人の様子を克明に記録しています。この期に及んでようやく悔い改めた一人の犯罪人に対し、イエス様は死後イエス様と共に「パラダイス」にいることを宣言しました。このパラダイスは、旧約ではエデンの園を指し、イエス様ご自身のご説明から、それはアブラハムの懐を指し、そして最後の審判では、やがて来る神の国を表しています。これから向かう死後の世界をイエス様が説明されたとき、この地上では悪辣な事しか残してこなかったこの犯罪人は、神に罪が赦されたことを知っただけではなく、本来行くことなどありえない、神の国に自分が迎え入れられると確信できたのです。何もできない彼でしたが、最後に彼は心の底からイエス様に感謝をしたに相違ないのです。
●他の福音書では書かれている「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言う言葉をルカは記録していません。その代わりに「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と激しい苦しみから解き放たれた安堵の言葉を最後に残しています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言う言葉は、父なる神様から捨てられたイエス様の絶望の表れと言われる方がいますが、そうではありません。これは受難のメシヤを表現した詩篇22篇を諳んじている言葉です。この22篇の後半部は、賛美と感謝と喜びの言葉が綴られています。イエス様がご自分の使命をこの十字架で果たしたことを宣言する言葉だったのです。読者であるギリシャ人にとっては、二人の犯罪者の話の途中でユダヤの預言を挿入するとかえって混乱することを避けたのではないかと思われます。
●アリマタヤのヨセフという議員が遺体を引き取り埋葬するのですが、これは大変勇気のいることです。この行為が、「自分はイエスの弟子である」ことを宣言してしまうのと同じだからです。彼はまた自分の為に用意した真新しい墓をイエス様に譲られているのです。12弟子にはこの真似ができませんでした。ルカはここでも弟子の不甲斐なさをクローズアップしてるのです。この場面は「使徒の働き」への伏線となっているのです。