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ルカの福音書22章-3

ルカの福音書22章-3
=本章の内容=

❾イエスの捕縛❿ペテロの否定⓫カヤパの家・サンヘドリンで

=ポイント聖句=

こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。(22:67~68)

=黙想の記録=

●「口づけをして」とは本来、「親愛の情を表す行為」ですが、ここでは敵の先導者としてイエス様がどこにいるのかを指し示す為だけのものでした。人間がもっとももろくてひっかかりやすい点は「見せかけの愛」を逆手に使われることです。「人生を神に委ねること」に失望させ「結局自分自身で人生を切り開いていく」という決意させることです。サタンはユダにもイエス様にも同時にこの「口づけ」で攻撃を開始したのです。

●ペテロやそのほかの弟子たちは、イエス様がゲッセマネで祈りによる「霊の戦い」の現場に立ち会ったはずです。ところが自分の力任せの熱情だけで、問題を解決しようとしているのがこの捕縛の現場です。これが「血肉の戦い」です。これもまた「人間の持つ闘争本能」を煽るサタンの常套手段なのです。「捕縛する者たちと争う」ことではなく、「十字架に静かに向かうこと」が「ほふり場に引かれて行く子羊(イザヤ53:7)」の聖句の成就であることをイエス様は十分意識しておられました。幾万の天使を呼び出し、捕縛にきた兵士たちを一掃することさえできた方が敢えてそうしなかったのです。最後まで敵味方の隔てなく手当をすることで、神様の愛を実現された。「霊の戦い」にすでに勝利されたので、「肉の戦い」は不要になったとも言えるのです。「捕縛される」のでなく「自ら進んで十字架につく」プロセスが始まった。「暗闇の力」とはサタンの支配下のこと。ですが同時にサタンがお膳立てしていた「人間救済の道を絶つ計画」が逆に「人間救済の手段」となって行くのです。この時点でサタンの計画はすでに頓挫しました。

●ルカはなぜ「ペテロがイエス様を三度も否む」様子を細かく表現しているのでしょうか。ペテロは自らの恥ずかしい過去を敢えて書かせることで、いかなる基督者でも主の憐れみが用意されていることを伝えたかったのではないでしょうか。ペテロが敵から受けたこの三つの質問とその返答を通し心の微妙な変化をルカは伝えたかったようです。同時にこれはサタンに誘惑されるときの基督者の姿にも被るところがあります。第一に「一緒にいた」という言いがかりに対して、ペテロは「一緒に居ただけで弟子とは確定していない」とごまかすのです。第二に「彼らの仲間だ」との言いがかりに対して、弟子であることを否定しています。第三に「この人もガリラヤ人だから」という言いがかりは、言葉のなまりなど動かぬ証拠を突き付けて逃げ場所を失っているのです。信仰生活を送りながら基督者は何度となくペテロと同じようにイエス様を無視し置き去りにして独走してしまうことがあるのです。しかしその度にイエス様は憐れみをかけてくださることがこの場面から汲みとれる。

●カヤパの家・サンヘドリンでいよいよ不当な裁判を次から次へとイエス様は経験なさいます。ここで彼らの背景にはサタンがいることを忘れてはならりません。サタンが行ったのは、「からかうこと」「鞭打つこと」「目隠しすること」「悪口を浴びせること」である。「鞭うつこと」は身体への影響を及ぼすことであるが死に至らせるわけではありません。あくまでもイエス様ご自身の行動を抑制させるものですが、「からかうこと」「目隠しすること」「悪口を浴びせること」は精神的な不安を湧き立たせ屈辱を味わわせるサタンの人間への常套手段です。

●議長・副議長を含む総勢71人から構成されるサンヘドリンでは、ののしることはできますが、死刑判決が出せません。次から次へと偽証者が登場しますが、決め手は全く出てこないのです。しかし、反対者のいない宗教裁判では白も黒にできてしまうのです。サタンの手段は、理由にもならない理由のごり押しです。

●一連の流れから、私たちは肉に働くサタンの巧妙な働きを覗くことができるのです。