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ルカの福音書22章-2

2024年11月12日

ルカの福音書22章-2
=本章の内容=

➎誰が偉いか➏シモンの裏切りの予告➐旅支度➑オリーブ山での祈り

=ポイント聖句=

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(22:42)

=黙想の記録=

●「裏切り者探し」からそれぞれが「後ろめたさ」「醜さや愚かさ」が思い出され、それを打ち消したい一心から、自分たちの手柄話で払拭したかったのではないでしょうか。誰よりも自分を前に出したいという自己顕示欲があり、それに引き回される生き方をするのです。

●シモンの裏切りはユダの裏切り行為と大差はありません。「ふるいにかける」とは、ふるいを上下左右に激しく振ることで小麦粒で実の小さなものをふるいから落としていくことを表した言葉です。サタンがペテロを激しく振り回し遂にはイエス様を否むようにしたのです。ペテロは弟子たちの中でもリーダー的な存在としてイエス様は見ておられ、重大な局面の時いつもペテロを近くに寄せ、だれよりも多くの時間を割いていた人物です。「三度」を「三か所」と見るのは飛躍しすぎでしょうか。十字架に三本の釘で釘付けられたこの十字架を指していると思われるのです。「ペテロお前もお前の十字架がこれから待っている。それは他の弟子たちを導く使命だ。三本の釘で釘付けられた私の十字架の意味を忘れるな!」とのイエス様の無言の言葉ではないでしょうか。ヨハネ最終章には、イエス様は三度「私を愛するか」と質問されていることにもつながっていると思われます。

●残念ながらユダは「この世の息遣い」には鋭敏に反応できましたが「イエス様の心」には鈍感だったのです。ユダの様に「闇を愛する生活」は、「全て自分で人生を切り開こうといつでもどこまでも画策しなければならなくなる」のです。さらに幸せを掴める確実性はないのです。「闇を愛する」肉の性質を決別していく努力が私達に委ねられているのです。それはクリスチャンとしての偉業を成し遂げることより遥かに難しいことなのです。

●神殿の東北東に位置する海抜814mの小高い山でその西側斜面にゲッセマネの園がある。「ゲッセマネ」は「油絞り器」の意味を表すヘブル語。オリーブの実を絞っていた農場。この場所はユダも熟知の場所でした。ここでイエス様が、十字架を通り越して、宣教活動の為の旅支度を語られているのは驚嘆に値します。イエス様にとって、十字架はゴールではなく、教会の始まり、世界宣教へ入口と感じられていたのです。

●ゲッセマネの園での祈りはイエス様が不安を乗り越えるための個人的なものだったのでしょうか。ならば「いっしょに祈っていなさい」はどんな意味があるのでしょう。このゲッセマネも弟子教育の一環だったのではないでしょうか。今後弟子もまた、イエス様同様、困難な局面を迎える時が必ずやってくるのです。この局面を乗り越えるために祈りは不可欠のものであることの実物教材を見せたかったのではないでしょうか。悪魔の激しい攻撃にさらされているときに祈りよって打ち勝つことを教えていたのです。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」の言葉は弱音を吐いた言葉ではなく、あくまでも弟子たちへの実物教材だったのです。「父よ。」の呼びかけは、保護者として神は私たちにどん底までも寄り添ってくださる方であることを思い出させるのです。「もだえる」は、これからの困難に女々しい態度をとっているのではなく、むしろ雄々しく戦っている姿が見て取れるのです。ちょうど、ヤコブが神とレスリングしたあの事件を想起させます。荒野でサタンとの対峙した時とは明らかにその深さが違うのです。

●ゲッセマネで示されたイエス様の祈りの神髄とは「みこころならば、みこころのとおりに・・・」に表現されるように、第一に、自分の希望が叶うことを期待することではなく、神様のご計画が遂行されるように願う僕の態度です。そして、自分の願望を取り払い神の御心に従うせるため心備えの時でもあるのです。