ルカの福音書21章-1

●やもめのニレプタ
=ポイント聖句=みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。(21:4)
=黙想の記録=●この女性の献金の話は20章で登場したデナリ銀貨をいつも持ち歩いていた宗教指導者達とは好対照です。ルカがこの話をここに持ってきた意図が汲みとれるのではないでしょうか。二レプタ:レプタ銅貨はもともとギリシャの通貨で、コドラントはローマの通貨。1コドラントは当時のローマ帝国の銭湯の一回分の入浴料。現在日本では入浴料金が平均400円なので、この時にやもめが捧げたのも400円前後になります。こんな少しばかりの献金は、神殿の維持費にも消耗品購入代金にもならなりません。「持っていた生活費の全部を投げ入れた。」とありますが、二レプタが生活費の全てだったのです。彼女はどれだけ質素な生活をしていたかを逆に考えさせられるのです。「日々の糧を与えてくださる神」「やもめに対して特別に配慮してくださる神」を信じる信仰がなければできない行為なのです。Ⅰ列王記17章のエリヤとやもめの出来事を彼女はいまでも起こると信じていたかもしれません。単なる思いつきではなく、み言葉による根拠が彼女を突き動かしていたとはいえないでしょうか。
●イエス様は、ここで20章に話された「神のものは神に返えす」ことの具体例を示したかったのです。「私が手にしているすべての物は本来私の物ではなく主の物である。その認識があるか。」「主から任されている全ての物をこの地上の生涯でどう使うか」「この世に頼るのか主により頼むのか。」「思い付きではなく神言葉の根拠に突き動かされる行為の重要性を認識しているか」が教えられる場面です。
●マラキ3:9・10を根拠にして「 什一献金(収入の十分の一を献金すること)」を勧める教会(集会)もあるが、個人的には大変違和感のあるところです。「第一に、献金は税金ではない。第二に、会堂維持費または会堂使用料、昼食代・講演参加費・給料でもない。第三に、何かの為、誰かの為という目的で献金しているのではない。」のです。こうした考え方に捉われていると、ついつい基督者は捧げる金額の量で信仰を推し量る様になってしまうのです。
●昨今の若き基督者は「清貧」と言う言葉を知りません。これはこの世代の親で、戦後生まれの高度成長期の真っただ中で育った50代60代の親たちの影響をもろに受けているからです。この親たちは、「人並みの生活」が実はかなり豪奢であることに目を瞑り、この世の勝ち組に属することが標準と思い込み、職業に貴賤を設けることが、教会の説く「豊かな人生」と信じ込んできたのです。ところが、バブル崩壊や度重なる自然災害を通り過ぎても、被災経験のない多くの基督者は、教えられてきた「豊かな人生が砂上の楼閣にすぎないこと」をまだ悟ることができないのです。神の国はこの世では実現できないことを悟れないのです。そればかりか、イエス様へのリップサービスは一人前ですが、この方の清貧の生活には倣おうとしないのです。