ルカの福音書20章-1

➊何の権威によって➋ぶどう園の主人と農夫と息子
=ポイント聖句=ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』 20:15そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。(20:14)
=黙想の記録=●19章でエルサレムに入城し、宮を清めるという強硬手段を見て、「これはいよいよ次世代の登場成るか」と人々の緊張はマックスになっていました。ところが、イエス様は以降、何事かを起す気配がないのです。民衆はユダヤ独立とユダヤによる世界制覇に色めき立ち、弟子たちは自分の立身出世を夢見、宗教家たちは自分の立場が消失することへの絶望が湧き起っていたのです。ところが、イエス様の静まり返った姿に、民衆・弟子・宗教家はじれったくなって来ました。時間が経てば経つほど「何もしない。」「何もできない。」が彼らの結論となって行くのです。この期間が、十字架で救済の道を開かれる大事な準備期間であることは思いもつくはずがありません。
●「何の権威によって」と言う質問に、権威の所在を明らかにさせようとしました。「神」と答えれば「自分を神と等しい存在とする」ところから、即、「不敬罪」となり、答えられなければ、「魔術師のひとり」そして「ただの成り上がり者」を決めつけようとの意図があったのです。ところが、イエス様は質問で切り返します。「指導者たちの拠り所がどこにあるのか」を問いただしたかったのです。そもそも、彼らの言う権威とは「誰に師事していたか」程度の物だったのです。彼らはさらに面目を失うのです。
●ぶどう園の主人と農夫と息子の譬えです。登場人物はそれぞれ、「ぶどう園」はユダヤ人を、「ぶどう園の主人」は父なる神を、「農夫」とは時の宗教家たちを、「しもべ」とは預言者たちを、「子」はイエス様のことを指しています。ぶどうの栽培は大変手間がかかります。耕地にはいくつもの条件が必要ですし、剪定・芽かき・害虫駆除などの大変時間のかかる世話が欠かせません。ここで言う収穫が意味するものは、神に従う民のことです。ところが宗教指導者たちはこの農作業をまじめに取り組まないばかりか、預言者を無視したり、迫害したりしていたのです。これは史実です。ついには、これから神の御子であるイエス様を十字架につけて殺すのです。長きに渡り、人間の作った権威に胡坐をかき、適当な指導をしてきた為に、この民は信仰も、神への畏れも育ってはこなかったのです。「そんなことがあってはなりません。」とは物語の不条理さに怒りを感じただけで、自分たちとは無関係を装っていたのです。「詩篇118:22家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」という聖句を引用し、メシヤとして来られた方をユダヤ人は拒否し捨て去ることを預言した物です。