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ルカの福音書19章-2

ルカの福音書19章-2

=本章の内容=

➋ミナを預けられたしもべたち➌子ロバに乗ってエルサレムへの入城➍エルサレムのために泣くイエス様

=ポイント聖句=

そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。(19:35)

=黙想の記録=

●ここに登場する身分の高い人は、恐らくアケラオではないかと推測されています。このアケラオはヘロデ大王の後継者でしたが、大変残虐な人物で、大祭司が支配するエルサレムへの強い偏見を持っていたのは彼の母がサマリヤ人であったことが影響しているようです。

●1ミナは100デナリに相当し、当時の労務者100日分の労賃です。日本人の平均年収は440万円。年間労働日数は240で計算すると、4400000円÷240日×100=188万3千円で大した額ではありません。十ミナ・五ミナはその十倍・五倍ですが小規模の起業ができる程度です。この1ミナの譬は、私たちに「再臨の時までに基督者としてどう生きるか」が問いかけているものです。「一ミナ」とは誰にも同じ条件与えられています。つまり、これは「人の一生」を表しています。十ミナ儲けることも五ミナ儲けることも町を治めるほどの偉業とは言えませんが、この場合、王位に就いた者に、仕事に対する忠実さを評価される試験紙であったと思われるのです。ここでクローズアップされるのは、その1ミナを「風呂敷に包んでおいた」人物のことです。この怠惰なしもべの言い分から彼の主人をどう見ていたかを知ることができます。「①計算に細かい人物②預けなかった物を取り立てる人物③蒔かなかった物を刈り取る」と冷血で冷酷であると酷評しているのです。しかもこの主人の真ん前で。実はこれが、救いのあることを信じようとしない人々の神様概念なのです。残念ながら彼は偽基督者で、次のステップアップはなかったのです。与えられた一ミナ(約束されている永遠のいのち)をはく奪されただけでなく、天国でも居場所を失うのです。「銀行に預ける」とは 他者の事業を応援すとか他の基督者との協力を図ることなのですが、彼はこれさへもしていません。
一ミナは基督者としての人生全体をさす。誰にでも等しくあたえられた人生で、いかに自分を統治してきたか、つまり、自分の古い性質をどう清めていったかのテスト。賜物の活用による事業の成功のことを言っているのではない。

●ゼカリヤ書 9:9で「メシヤがエルサレムに入城される際の様子」が預言されていました。子ロバで入場する人物こそメシヤなのです。子ロバには以下のような意味があります。①子ロバは軍馬にはならない。だが荷物を運ばせることができる。平和の君を象徴する②子ロバの乗るイエス様の姿は、人垣より下の一の為、多くの人々はイエス様を見下すようになる。つまり「人よりも低くなられた」イエス様の謙遜が伺える。歴代の王も、エルサレム入場に際しては立派な軍馬あるいは高級な騾馬を整えて入城しましたが、イエス様はごくありふれたロバを使われたのです。「預言通りの待望のメシヤが入城してきたから。ローマの圧政から逃れられる」と踏んでいたため、人々はイスラエルを解放してくれるメシヤ像としか映っていなかったのです。人々はなぜ子ロバで入城したかの意味を全く理解していないのです。

●イエス様は、エルサレムに入城し、宮を清めるという強硬手段をとりました。いよいよ次の世代が訪れると思い込んだ人々の緊張はマックスになってしまいました。ところが、イエス様は以降、何事かを起す気配がない。民衆、弟子たち、宗教家たちは拍子抜けしてしまうのです。民衆はユダヤ独立とユダヤによる世界制覇に色めき立ち、弟子たちは自分の立身出世を夢見、宗教家たちは自分の立場が消失することへの絶望が湧き起っていたからです。宗教家たちは怖いもの見たさにやってきて、静まりかえっているイエス様を小枝でつついて反応を調べようとしたのがこの章である。ところが、イエス様の静まり返った姿に、民衆・弟子・宗教家はじれったくなって来ました。時間が経てば経つほど「何もしない。」「何もできない。」が彼らの結論となって行くのです。この期間が、十字架で救済の道を開かれる大事な準備期間であることなど予想だにできなかったのです。