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ルカの福音書18章-3

=本章の内容=

➎エリコの盲人(バルテマイ?)

=ポイント聖句=

イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。(18:42~43)

=黙想の記録=

●エリコは、海抜マイナス250mの低地にあります。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、この名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていました。 冬でも10℃を下回らない温暖な場所なので、野宿しても凍えることはないところでした。祭司などが住居を構える文教地域でもあったので、「門前の小僧」ではありませんが、日常的に聖書が語られていたと想像できます。ここに登場する盲人もその一人と思われるのです。

●当時身体障害者は一定年齢になると、家から出されることになっていました。このため、人の情けに頼って生きていかなければならなかったのです。エリコは住みよい場所だけではなく、盲人の信仰を醸成していた場所とは言えないでしょうか。

●「サムエル記第二7:12~13」からメシヤは、ダビデの子孫から王国を長く堅持する者が現れること。「イザヤ9:6~8」から、メシヤは「ひとりのみどりご」としてこの世に生を受けること。この盲人にもこれらの話を日常的に耳にしていたことでしょう。この盲人は、メシヤが盲人の目をあけることが預言されていた(イザヤ35:5)のことも、知っていました。そこで彼は、「ダビデの子」とメシヤであることを認めながら近寄って来たのでしょう。(イザヤ35:5…そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。)「あなたの信仰が」とイエス様が仰られたことから見て、この男性には他の誰にも勝って、「メシヤは誰なのか」が理解できていたことが証明されるのです。

●この章に出てくるパリサイ人も律法学者もそして弟子たちも、旧約で預言されているメシヤに関して全く無頓着無関心でした。旧約で預言されているイスラエル復興の為のメシヤとして偏った味方しかできなかったのです。霊の目が開かれなくてはならなかったのはこの人々の方だったことをルカは言いたかったのではないでしょうか?

●本書では、受難のキリストが旧約聖書にどれだけ預言されていても、「世界制覇を企てる政治的メシヤ」としか、当時の人々の目には映っていなかったのです。一方、少数ではありましたが、エリコの盲人のように、預言からメシヤが貧しいものの救済のために来ることを信じる者もいました。考えてみると、イエス様にその信仰を認められた人物は、この世では不幸不運を背負っているとみなされた人ばかりです。最低の生活を強いられた人たちは「野望」という欲求に翻弄されませんでした。むしろこの人々にとって希望は「神われらと共にいます」にあったのです。