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ルカの福音書18章-2

=本章の内容=

➌子供を引き寄せる➍金持ちの役人とペテロ

=ポイント聖句=

こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。(18:3)

=黙想の記録=

●イエス様に「触れる」という行為は、子供に「無病息災」をもたらして欲しいという親たちの当たり前の欲求です。これに対して、「イスラエルの再興を実現される方に気軽に触るな」との弟子たちの思いにも、自分たちは一般人と格が違うという顕示欲の表れで、どちらも心の中にも「自分だけは特別扱い」してほしいとの欲求があるのです。「子どもの様に神の国を受け入れる」の「神の国」とは、「王国の到来」を表しているのではなく、目の目にいるイエス様のことを指し示しているのです。17章の流れから考えると、イスラエルに悲劇が起ころうとも、イエス様のおられるところこそ不動の神の国であることを教えているのです。

●イエス様の元に訪れた金持ちの役人の話です。「ユダヤ教最高の先生」と敬意と称賛の言葉をもって近寄ったのですが、イエス様の説く「神の国」や「永遠のいのち」といった抽象的な事には何の関心もありません。この役人の関心は、「永遠のいのち」などという抽象的なものではなかったのです。ですが彼もまた弟子たち同様、金持ちであることをひけらかしながら、「成功者である自分を特別扱いして欲しい」と欲求だけがそこにあったのです。当時「金持ち」は「神に祝福されている」ことの証明と思われていたのです。イエス様が抜粋されたモーセの十戒は、後半部分で「人との関わり」を述べたもので、「神との関わり」の部分を敢えて省かれました。「永遠のいのち」の価値はこの世のスケールでは測りえないもの。全財産を失うようなことがあっても「永遠のいのち」はかけがえのないものでしたが、彼は天秤にかけ、こんな抽象的な世界では生きる甲斐がないと踏んだのです。

●「らくだが針の穴を通る」には2説あります。一つ目は実際に針の穴と呼ばれる入口があり、そこを通り抜けるには荷物を下ろしたラクダが足を折ってかがんで入り込む必要がある。へりくだることを教えるというもの。もう一つは、ユダヤのことわざで、もともとは「ラクダ」という語句は「綱」を表し、綱の太さと糸の太さを比較したもの。とうてい無理だという表現。

●ペテロの告白の話です。ペテロはとても単純な人です。裕福とな役人に提示された「捨てる」ことが特別扱いしてくれる尺度なら、自分はもうとっくにその点をクリアしていると主張したのです。ここにも「特別扱いして欲しい」とのペテロの欲求がもろに表現されています。

●子供の親たちも、富める役人も、ペテロも自分を「特別扱い」してもらいたかった。この世の幸せが「無病息災」であり「裕福なこと」であり「弟子としてのポジション」と考えていた。しかし、これらは信仰がなくても得られるもの、心を満足させることができるかもしれませんが、魂を満足することができない。「神の国」「永遠のいのち」「救い」はすべて、イエス様ご自身のうちに存在するもので、イエス様を救い主として受け入れるときに初めて得られるものである。

●この章の最後は、イエス様受難の預言です。「創世記3:15かかとにかみつく」とはメシヤが傷を負うことの描写、「詩篇22:1~21」はメシヤの十字架刑の描写、「イザヤ53:4~9」は、裁判から十字架までの描写、「ゼカリヤ12:10の自分たちが突き刺した者、私を仰ぎ見て、激しくなく」とは、地上再臨されたときにユダヤ人は十字架のイエスこそメシアだったと気づく時の描写です。これらの預言をこれから成就するためにイエス様はエルサレムに向かわれるのです。