ルカの福音書18章-1

ルカの福音書18章-1
=本章の内容=
➊裁判官とやもめ➋パリサイ人と取税人
=ポイント聖句=いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。(18:1)
まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。(18:7)
●本章の初めにある裁判官とやもめの話から、「このやもめの様にしつこいほどに祈ると父なる神様が動いてくださる」と、捉えるのは無理があります。7節から眺めると、「裁判官」は父なる神を、「やもめ」は選民イスラエルということになり、この「さばき」は、世界を裁く日となるのではないでしょうか。17章の続きで「人の子の日」を基本にした話とするならば、夫のいないやもめとは、イエス様を十字架に付けてしまったイスラエルのこと。そして「神を呼び求める」状態とは、後に訪れるイスラエルの2000年に及ぶ悲劇の歴史を表しているものです。つまりここで「失望」してしまうほどの出来事は、その悲劇の歴史を意味しているのです。同時に、基督者に訪れる迫害の歴史を預言した物とも思われるのです。
●パリサイ人と取税人の祈りの話ですが、ここでは「謙遜な祈り」と説明するだけでは不十分です。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。」というキーワードから、パリサイ人に対する痛烈な批判、そして神様の前における「罪人」とは、誰かを指し示しています。祈りの姿勢を比較すると、パリサイ人は立ったまま目は遠くにいた取税人の方を向いたままです。自信たっぷりでいかにもお高く留まっている嫌な奴として表現されています。一方取税人は宮にも入らず顔を下にしたまま崩れ落ちた姿勢のままです。以下に自分がこの場に相応しい者ではないと言うことを全身で表現しています。「自分の胸をたたいて」とありますが、相当の後悔の念が伺えます。取税人は何を後悔しているのでしょうか。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と言うところから、この取税人は、悔い改めていたのです。そしてこの祈りには、悪しき生き方を清算する覚悟を感じさせるのです。ところで、この物語はいくつかの疑問が湧いてきます。第一に「義と認められて」の「義」です。この場合「取税人の祈りが受け入れられた」との意味ですが、取税人の祈りに神様に具体的な「今後の方向性」も「具体的にどうしてほしい」との中身が全くありません。第二に「あなたがたに言うが」と言うところから義と認めているのはイエス様となり、ここで父なる神様と同等の立場に自分を置いていることなのです。そもそも「悔い改める」と言うことには「自己放棄」つまり「自分の人生は自分の物ではなく神様のもの」と宣言しているのです。ですから今後の身の処し方は神様が責任を負ってくださるとの信仰が生まれる訳です。さらに父なる神様の前に一緒に出向き、私を弁護してくださり神様に受け入れられるようになるのはイエス様がいるからに他ならないからです。と、同時に17章からの流れから、当時の宗教指導者の態度が、イスラエルの悲劇を起す原因となることも指し示しているのです。