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「大きいことはいいことだ」・・・ほんとにそれでいいの?

2024年7月4日

《なるほどThe Bible》2023/09/02
=「大きいことはいいことだ」・・・ほんとにそれでいいの?=
[重要聖句] 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。"
ルカの福音書 17章5~6節
そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」"
ルカの福音書 13章18~19節
●森永製菓は昭和42年の目玉商品として大型の板チョコ「エールチョコレート」の発売を決めました。営業鍵での「今までの日本は、小さな幸せ、慎ましやかな幸せが美徳とされてきた。これまでにない速さで経済大国の道を歩みつつあるこれからは、もっとのびのびと胸を張って、大きいことはいいことだと主張しよう」と方針から誕生したコマーシャルが、当時、型破りでひょうきんな指揮者として人気を博しつつあった山本直純を起用した「大きいことはいいことだ」のテレビCMとなった訳です。経済の上昇気流に乗った日本を象徴するように、気球の上から1300人もの大群衆を指揮する山本センセイを映し出すCMは大ヒットとなりました。現在60歳以上の方々に深く刻まれたフレーズがこの「大きいことはいいことだ」なのです。しかし、これを基督者の信仰生活あるいは教会成長に当てはめるのは如何でしょうか。「大きいこと」が本当に正しいことなのでしょうか。
●当時吹けば飛ぶような弱小集団であるナザレ派の弟子たちは、いつでもこの集団から離脱可能だったのです。元の古巣に戻って快適な生活さへ送れるのです。ところで彼らが夢見ていたのは、イエス様が世界支配するこの世での「神の国」の到来であり、その神の国でのゆるぎない「立場と肩書」を欲していました。そして彼らのイメージでは王国での立場と肩書は彼らの実績と能力に比例すると考えていたのです。彼らには「真実な信仰」の片鱗すらなく信仰とは「野心を完遂するための原動力」と思い違いしていたのです。イエス様の返答は意表を突いた物でした。「あなたがたに、からし種ほどの信仰があれば」と言われた時、弟子たちには、からし種程のイエス様の返答は間違った「神の国」
●さてからし種とはクロガラシのことで、一粒の大きさは0.5ミリ程度である。成長すると3mほどの高さになり、イスラエルでよく見かける灌木です。この個所は次の様な解釈があります。
(1)ユダヤ教の一地方の宗派「ナザレ派」とみなされていたキリスト教が、全世界に拡大してくとの預言と解釈されています。そこから現代キリスト者に適応して、吹けば飛ぶような微量の信仰であっても、不可能を可能にすることができるのです。桑の木は樹齢が長くその根は広く深く張る。このことから経験(樹齢)や物理的心理的な深刻度(広さ深さ)から考えると、実現不可能と思える場面に遭遇しても、神様の恵みによって変えることができる、これを信じることが「信仰」である。
(2)「空の鳥が枝に巣を作りました」単に「鳥」と言わずに「空の鳥」との表現から、この世を支配するサタンと見る説もある。いつの間にか、規模化していくキリスト教会にサタンが根城にしてしまう。「毒麦の譬え」や「からし種の譬え」は、教会の成長における種々の障害を語られたものです。教会には必ず毒麦が入り込む可能性があります。それは単に異端と呼ばれるものだけではありません。毒麦は良い麦に変化することは決してありません。聖書にそぐわない教理を持っている者それが毒麦です。さらにからし種とは、教会が規模化することの譬えと思われますが、規模化すればするほど、「空の鳥」つまりサタンが漬け込む余地が出てくるのです。「規模化」は「野心」と紙一重です。
●教会の規模化でよく問題にされるのが「教会堂建設」です。

●信仰とは「信頼の向かう先」であり「恵みに浴すること」あって修練などでは得られません。ましてや信仰は分量として計測できないのです。奉仕とは、「自己満足の為」ではなく、ましてや「自己実現の為」ではありません。とことん人に仕えられる姿勢が見られなければそれは奉仕ではなく、パフォーマンスです。

「信仰を増し加えてください」という頓珍漢な要求はこの実績を高めるための力。