ルカの福音書17章-2

ルカの福音書17章-2
=本章の内容=
➌10人のライ病人を癒す➍感謝せよ
=ポイント聖句=①そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」(17:15~18)節
②弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」(17:37)
=黙想の記録=➌ルカの福音書だけに記述されている「十人のライ病人」の物語です。この物語は「感謝の必要性」または「神に栄光を帰する」というテーマで利用されています。でもなぜサマリア人一人だけなのでしょうか。私はここでこんな黙想をしてみました。
●そもそもライ病(ツァラート)とは何でしょうか。ライ病は現在「ハンセン病」と呼ばれています。らい菌によって、主に皮膚や末梢神経が侵される慢性の病気です。毒性が非常に弱く、感染しても発病することはきわめてまれです。1943年の「プロミン(注射薬)」に始まる治療法の発達によって、確実に治る病気となりました。しかし、治療法がなかったこの時代には、この病気は不治の病と考えられ、顔面や手足などの後遺症がときには目立つことから、恐ろしい伝染病のように受けとめられていました。
●ライ病の患者は民数記やレビ記の規定によれば、祭司によって「汚れた者」と宣言され、社会から徹底的に隔離を迫られていました。これは健常者に感染するのを避けるためです。時には肉親や彼らがまた生まれ育った地域社会から引き離されることもありました。さらにライ病人は旧約聖書の中で度々「神ののろいや刑罰の結果」として表現されていました。つまり身体的な苦痛だけではなく「神にも呪われた人」とのレッテルまで貼られ精神的な激痛をも伴うものだったのです。ここに登場する十人のライ病人は「ある村」にいたとあります。恐らくライ病人を集団隔離するための村であったと想像できます。健常者の様に生産活動ができません。したがって彼らは家族からの支援や奇特な人々の善意に縋(すが)るしか生きる術(すべ)がないのです。
●十人が声を張り上げて訴えた言葉は「あわれんでください」でした。ギリシャ語ではeleeō(エリエーオ)で、慈悲をおかけください・助けてくださいと意味はありますが「癒してください」の意味はありません。さらに「ご主人」と呼び掛けていることから、今流に言えば「旦那さん。なんか恵んでください。」ということになるでしょうか。ところが彼らの切なる願いに対してイエス様は「行って、自分の体を祭司に見せなさい」と答えるのです。金品を頂けると思っていた十人には肩透かしの言葉です。あるいは彼らには「祭司に見せなさい」との言葉が「私には関係ない。祭司のところでも行って相談したら。」と突き放された言葉として聞こえたのではないでしょうか。結果彼らはイエス様に見向きもせずに「行って」しまうのです。この「行って」という単語はギリシャ語ではhypagō(フパーゴ)で、身を引く・離れていくの意味があります。私流に想像すればこの十人は「何にもしてくれないのかよ。つまんねえ奴だな。」と捨て台詞を残して踵を返して村に戻ったとしか思えないのです。
●しかしこの「祭司に見せなさい」の言葉は「金品をもらうこと」よりはるかに重要な意味があったことを彼らは気が付いていなかったのです。「祭司に見せる」ためには「患部が治っている」ことが前提条件です。つまりこの言葉掛によって「既にライ病が完治している」ことを宣言されているのです。イエス様は彼らの患部に手を当てて治療行為をしてあげこともできたはずです。患部を治すだけなら単なる医師です。この癒しの業が言葉だけで行われるとしたら、その言葉を発した人物には神の権威が備わっているのです。百人隊長はしもべの癒しの為に「お言葉をください。(マタイ8:8)」と願った「言葉」のことです。「イエス様の言葉にこそ神の権威が備わっている」と百人隊長は信じていたのです。病気を癒す権威・自然を動かす権威あるいは神の呪いから解放する権威、つまり「神の権威」をイエス様は持っていたのです。彼らはそれを信じることができませんでした。結局彼らもユダヤ教指導者と同じで「しるし」を求めはしますが、イエス様の言葉に何の権威も感じていなかったのです。
●ところがそのような不信仰な彼らにもこの直後イエス様は奇跡を起こすのです。体に変化が起こったのです。「清められた」はギリシャ語ではkatharizō(カサリゾ)で、きれいになる・汚れが落ちる・病気が治されるの意味があります。この奇跡を十人全てが同時体験しているわけですから本当は途轍もなく凄いことが起きたのです。こんな奇跡を経験しながらなぜ十人全員イエス様のもとに帰ってこなかったのでしょうか。ここでも私はこんな素朴な疑問が湧いてきました。
(1)サマリア人を除く九人はその後果たして祭司のところに出向いたのだろうか。それはこの17章に記述されてないのです。祭司のもとに行かなかったと仮定すると、九人は清められたことに気が付いていないということにはならないだろうか。あるいは完治していると信じられなかったのではなかろうか。
(2)この時点で「完全に癒された」と確信できたのはこのサマリア人だけということにならないだろうか。そして同時にこのサマリア人だけが「イエス様の言葉の権威」に気づくことができたのだろうか。
●「サマリア人だけ」なぜという疑問が逆にこの素朴な疑問を解くカギになると黙想できました。イエス様が「この他国人」と呼ばれた「他国人」はギリシャ語ではallogenēs(アラゲネイス)で、別部族・外国人との意味でユダヤ人とは一線を画す者です。サマリア人は同じユダヤ教の神を信奉していても歴史上他国民との混血人種とみなされあらゆる点で差別を受けてきました。ほかのユダヤ人はエルサレムの正当なユダヤ人祭司のもとに行き「清い者」と宣言され社会復帰ができたとしても、サマリア人にはそれはできません。そもそも受け入れてもらえないからです。受け入れてくれるのは自分を癒してくれたイエス様以外にいないと確信したからです。サマリア人にとって戻れる場所はイエス様だけだったのです。現在の私たちはどうでしょう。イエス様だけが戻れる場所となっているでしょうか。
●しかしサマリア人のとった行動はさらに彼の確実な信仰の進歩を表しています。「神をほめたたえ」「足元にひれ伏し」とありますが、この行為は「イエス様を神として崇める」行為に等しいのです。サマリア人はイエス様に戻ってくるその瞬間にイエス様の内に神の権威を認めたからに他ならないのです。
●ルカは本福音書を異邦人向けに記述していることを忘れてはいけません。ルカがこの物語を敢えて選んだのは「メシヤはユダヤ人に見捨てられる。それゆえに救いが異邦人にもたらされた」との展開をここで説明したかったからではないでしょうか。
❹「パリサイ人のイメージする神の国」とは「メシアによる現世での世界統治」のことだけです。「いつ来るのか」という質問は、未来における「神の国到来のしるし」を尋ねて求めている様子です。しかしメシアであるイエス様の初臨はたった今ここで起こっています。この初臨の目的は、メシアによる世界統治ではありません。メシアの初臨の目的は不可視的な「魂の救い」です。
●「人の子」は、ギリシャ語でhuios(フィアース)・anthrōpos(アンソロパス)という二語から成り立っています。新約に54回(53回はイエス様のことを指し、福音書に50回使われています)。ご自分を独特な呼称で表現しておられました。「人の子」の使い方は以下の三通りです。
①受肉され受難を経験されるイエス様の姿
②復活され召天されるときの姿
③「イエス様が裁きに来る日の姿
●後半出でてくる「人の子の日」とは上の③のことです。「男女」ともは性別に関係なく、「休んでいる・働いている」日常的なことが続いているとき、「主なる神による選択によって容赦なく取り分けられることの表現です。曖昧さはそこにはありません。どんな状況によっても左右されることなく厳密に。白か黒。右か左。救いに段階はないことを示しているのです。
●弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。これはハルマゲドンを表現したものではなく、「ゴルゴダの丘」のことです。死体とはイエス様、はげたかは時の宗教指導者を表している言葉です。猛禽類のはげたかが、無抵抗な死骸をくちばしでつついて食らっている様子は、十字架の周りで死に行くばかりの無抵抗なイエス様を、攻撃し続けたのは宗教指導者たちや衣服をはぎ取る兵士たちことと符合します。
●「神の国を待望する」とは、人となってこられた神の子イエス様こそがメシアだと信じ受け入れることに他なりません。神が人を使って統治する状況をこの現世で作り出すことではないのです。時の宗教指導者は「国家主義としてのイスラエルの復興」と「自分たちの今後の処遇」しか考えていなかったために、目の前に現れたメシアが分からなかったのです。この時点では弟子たちは、メシヤのこの世での大業が何であるのかが全く分かっていませんでした。