ルカの福音書17章-1

ルカの福音書17章-1
=本章の内容=
➊つまずきと赦し➋しもべ
=ポイント聖句=あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。(17:10)
=黙想の記録=●この章を一貫しているのは「弟子として何をなすべきか」つまり4つのテーマで「弟子の本分」を教えていると黙想しました。4つのテーマとは以下の通り。
A:基督者同士の絆を深めよ、B:神に仕えよ、C:感謝せよ、D:神の国を待望せよ
●「つまずき」は何かに足先をひっかけ転ぶあるいは転びそうになること。広範囲の意味を持っていますが、「他者を不快にさせる」という共通項がギあります。ギリシャ語のskandalon(スカンダロン)[]スキャンダルの語源]の意味は「感情を害する、気にさわる、不快感を与える、〈宗教・道徳などの規範を〉破る、犯す、犯させる、名誉を汚すような不祥事。金銭や異性などに関係した、よくないうわさ。醜聞。」となっています。そしてつまずきを与える者は、「石臼をつけて海に投げ込まれる」とありますが、「死体を海の底に沈めてしまえば永久に浮かんでこない。埋葬も許されない。」と、これほどの重罪であることを表現したものです。
●「兄弟」とあることから、これは「信者間での問題」と思われます。「赦す」に至るためには段階があります。①戒める=ギepitimaō(エプテマオ)=「裁定する、非難する、鋭く警告する」②悔い改める=ギmetanoeō(メタナエオ)=「心を変える、心をより良くするために、過去の罪の嫌悪を心から修正する」② 赦す=ギaphiēmi(アフィーミ)=「立ち去る、無視する、手放す、議論しない、放棄する、離れて彼に任せる、相互の主張を放棄する」です。
●七度罪を犯しても=「何度も繰り返す、呆れる」との意味ですが、考えてみると、よほど身近な存在でなければ、何度も罪を犯す現場にいないはずです。ですから、近しい関係ほどこの赦しの段階を踏む必要があることを表しています。手の尽くしようのないことが分かっていてもそれをないものとするのは、よほど寛容な人物でなければできないこと。
●弟子相互の在り方を述べられてはいるが、果たしてこの基準をクリアできる弟子が何人いたのでしょう。喧嘩っ早い弟子たちです。「つまずきの種を一切作らない」ことも「無際限に人を赦す」ことも実現不可能と思われます。ところが、この部分を神と人との関係で黙想してみると「毎日、私たちは、神様にどれだけ不快感を与えているのだろう、同じことを繰り返すのだろう、しかし神様は赦しておられる」と言うことになるのです。ここでイエス様が言いたかったのは、「神と人」との関係ではないでしょうか。人との関係改善を図る前にまず神との関係改善、そしてイエス様が示す模範をもって相互の絆を深めることを勧めている箇所と思われます。
●「私たちの信仰を増してください。」とは、イエス様が敷かれた弟子相互の在り方をクリアするには、どれほどの修練が必要か、それは不可能なことではないかということを彼らはこの言葉に託したのです。しかし、「七度罪を犯しても」のところでイエス様が説明された赦しの段階を理解すれば容易な事だったのです。それは相手に悔い改めを迫る前に、自分が変えられなければならないという条件です。
●からし種はイスラエルでは最小の種子である。吹けば飛ぶような微量の信仰であっても、不可能を可能にすることができるのです。桑の木は樹齢が長くその根は広く深く張る。このことから経験(樹齢)や物理的心理的な深刻度(広さ深さ)から考えると、実現不可能と思える場面に遭遇しても、神様の恵みによって変えることができる、これを信じることが「信仰」である。
●耕作も羊を飼うことも一時的ではなく限定的な仕事ではありません。長期間作物や家畜に付き合うことがなければ、良いものを生み出すことはできません。同様に父なる神様との絆も基督者相互の絆も短期間では結べないことを覚悟する必要があります。ここでいうしもべには個人のパフォーマンスを求められていません。主人のいいつけを正確に理解し、いいつけを正確に実行することが求められている。
●信仰とは「信頼の向かう先」であり「恵みに浴すること」あって修練などでは得られません。ましてや信仰は分量として計測できないのです。奉仕とは、「自己満足の為」ではなく、ましてや「自己実現の為」ではありません。とことん人に仕えられる姿勢が見られなければそれは奉仕ではなく、パフォーマンスです。