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ルカの福音書16章-2

ルカの福音書16章-2
=本章の内容=

➌金の好きなパリサイ人たち➍ラザロと金持ち

=ポイント聖句=

彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』(16:27~28)

=黙想の記録=

●「あざ笑った」と言う言葉は、イエス様の十字架を前にした指導者たちの態度でもあります。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」(ルカ23:35)。イエス様の自分たちの私生活を暴露され、反発の意思を表すためには馬鹿にした笑いを投げかけることが精いっぱいの行為だったのです。パリサイ人たちの陰に隠れた心の思いを一般のユダヤ教徒では探ることもできません。しかし神様は全てを知っておられる方です。この方を意識しない生き方をしているのがパリサイ人なのです。「律法と預言者」とはパリサイ人が「固執する宗教観」で、「神の国の福音」はイエス様の語る「魂の救済方法」のことを指しているのではないでしょうか。当時は些細な理由から妻と離別することが許されていました。自分の都合に合わせ、勝手な男性目線から解釈しています。「離婚後の新たな婚姻関係」をパリサイ人は枝葉のことと考え、さらに勝手な解釈をしていたのです。「結婚を尊ばれる」神様目線では、これは重大な犯罪だったのです。

●ラザロと金持ちの話は、当時の人々には驚天動地でした。これほどまでに詳細に死後の世界を説明した人物はいまだかつてだれも居なかったからです。2000年もの人々でも、「死後は自然に帰り、魂も何もない、無感覚な静寂な世界」と考えている人々がいたのです。彼らが驚いたことは第一に「死後の世界は二分割されていること」。第二に「この世のステイタスでは、死後の行先は決まらないということ」でした。どんなに豪奢な葬儀を執り行えたとしてもそれは死後の世界に何御影響ももたらさないのです。ラザロを永遠のいのちを頂いた基督者と置き換えることがありますが、では、あなたはラザロの生活に倣うことができますか。で、しかも皮膚病まみれ、野宿をし、食べ物も事欠く状態。死んだからと言って、同情されるでもないそんな生き方に耐えられますか?今心の中で「そりゃ無理だわ!」を答えた方は、神様の試練に耐え抜く力が備わってはいません。これからどん底の生活が突然待ち受けていようとも、神様に従おうと決定できなければ、「神様に人生を委ねている」などとは全く言えないのです。他人に「神様に生活を委ねてね」勧めておきながら、あなた自身が自分の為に自分の生活を享受している様なら、それは自己矛盾です。

●さて、ユダヤ教では富める者は、貧困者に施しをするのは「当然の義務(申命記15:7)」だったはずだが金持ちは、ラザロに対し、何の責務も感じていませんでした。それどころか飼い犬以下の扱いをしていたと思われるのです。ところが、ラザロは社会と隔絶された生き方しかできませんでしたが、死後は金持ちが隔絶された世界に放置されるのです。「指先の水」とは強烈な渇きを表現する言葉ですが、ラザロに「食卓から落ちる物」すら与えなかった金持ちが神様の報いを同様な形で受けているのです。「誰かが」と言った言葉に、金持ちが死後の状態を全く理解していない様子が分かります。死者は幽霊になりません。当時の宗教指導者が想像できるのはせいぜいこの程度だったのです。死後に神様の裁きが待っているなどとは夢にも思えなかったのです。金持ちが願っていた、使者として使わされる「死者のメッセージ」は本来「神への悔い改め」のはずですが、彼は「苦しみの回避」だけを懇願しているのです。こんな場所に追い込まれても「悔い改めの心」は生まれてこなかったのです。つまり、罪人のままだったのです。こんな状態ですから、メシヤが贖罪の羊となって犠牲を払うことなど全く理解できなかったのです。

●15章から引き続き「失われている者」への言及の箇所です。しかし本章では視点を変え、ユダヤ教の専門家である彼らこそ「失われている者」であることを教えているのです。