ルカの福音書16章-1

ルカの福音書16章-1
=本章の内容=

➊金持ちの管理人の譬え 

=ポイント聖句=

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
(ルカ16:9)

=黙想の記録=

●「不正な管理人」の譬えの部分ですが、この個所を「この世の富を用いてでも信仰の友を作りなさいとか、この世の富を用いてでも福音宣教に役立てなさい。」あるいは「信仰の友の為にあなたの蓄財や時間を惜しむな」と教えられて来たのですが、全く腑に落ちません。ここでは二つの捉えかたができます。

●第一の捉えかたは、「金持ち」とは「父なる神」、「管理者」とは「子なる神」、そして「債務者」とは「罪人である私達人間」とすることです。イエス様は、父なる神の代理者管理人としてこの世に来られた。ところが、債務者である罪人は、大きな過失を犯し債務が返せない状態だったのです。浪費は、この管理者自身の為でなく、債務者が生きやすい様に費やしたものではないでしょうか。「救いを受ける者たち」の為に、イエス様は人生のすべてをかけましたが、最後に十字架に架けられる場面は、父なる神様にとっても、子なる神様のイエス様にとっても、まさに浪費したかのように、悪魔たちには見えていたのです。そしてこれは、時の宗教指導者が、このナザレ派を率いるイエス様として見えていたのです。「人」は神によって創造され、生きるためのすべてを供給されていたにも拘わらず、「何の利益をも主人にもたらさなかった」様に、創造主に貢献するなどということは全くなかったのです。悪魔にしてみれば。「人」を自分に傅く(かしずく)存在としてみているが、救われるべき存在、愛される存在とは見ていません。悪魔から見れば、「人を救う」為に、「神自らが人となる」ことや「罪を背負って十字架につく」ことは不正と思われるほどのことだったのです。管理者としての資格がなくなる日があります。それはイエス様が十字架に架けられる日のことです。この日には管理者は、主人に対し会計報告(何に使ったのか)の報告を求められるますが、負債を返すことはありません。管理者がとる責任は「管理者としての役割を下ろされる」ことでした。これは「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、・・・(ピリピ2:6)」」のみ言葉を想起させます。

●第二の捉え方は、16章の冒頭で「イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた」とあり、弟子向けの話と思いきや、14節では「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」と弟子以外の人間が鋭敏に反応しているのです。そこでこう考えました。金持ちとは「金銭欲」という神で、管理人とはその金銭欲に仕えている宗教指導者です。パリサイ人たちは、人と人の民事事件の仲介者として、秘密裏にこうした不正行為を行っていたのです。債務を軽くするように見せかけ、債務者に恩を売っている。債務者は債務を軽減されるわけだが結果的には納められるだけの額を納めることになる。債務から逃れられない。パリサイ人の行為は「罪への呵責」を軽減するが、罪そのものを帳消しにしたのではない。管理者は債務者に善人を装って、「自分が律法を全うさせるための仲介者」の様に見せかけ、賄賂をとっているのです。金銭欲という神は、こうした狡猾な手段で「人脈を作れ」と推奨しているかのようです。当然こうした人が神の裁きに遭えば、「彼らが迎え入れる永遠の住まい」「地獄」ということになるのです。二人の主人とは「正義公正の父なる神」か「金銭欲の神々=この世の支配者」を表しています。つまり、二つの話のうちあなたはどちらの生き方をしたいのかという究極の選択を迫ったものではないでしょうか?