ルカの福音書15章

2024年10月23日

ルカの福音書15章

=本章の内容=

失われたもの ➊つぶやき➋一匹の羊➌一枚の銀貨➍放蕩息子

=ポイント聖句=

立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。(15:18)

=黙想の記録=

●宗教指導者は職業の貴賤で人を判断していました。書簡にはすでに初代教会内でこのような事態が起きていたと記載されています(Ⅰコリント11:22)。取税人はローマの手先として働く者たちなので、ユダヤ人から軽蔑される仕事。罪びとはこの場合犯罪を犯した人たちというよりは「律法」を順守していない者たちを意味する。羊飼いも安息日を守ることができない職業のひとつ。また下働きをする女性たちもこの中にはいたと思われます。本章で、羊飼いや豚飼い、あるいは銀貨を探す女性を意図的に登場させているのです

●放牧する羊は夜間などには茨で囲まれた場所に集められていた。門には必ず羊飼いが寝ずの番をしていたと思われます。同じ羊の話がマタイにも出てきますが、マタイ18:12では「迷い出た羊」ルカ15:4では「なくしたら」とニュアンスが異なる表現をしています。どちらも群れの中にいたのに突如見つからなくなったことをと述べていますが、「迷い出た」には責任が羊の側にあり、「なくした」には責任が羊飼いの側にあるように思えるのです。13章のブドウ畑の番人の様に、責任をわが身に負おうとされるイエス様のお姿をルカはクローズアップしたかったのです。羊を担ぐとありますが、これはわざと羊の足を折り、逃げ出さないようにした為に担ぐしか移送手段はなかったことを表しています。これ以上過ちに陥らないように父なる神様は、私たちもこうした処置を成される場合があるのです。

●一枚の銀貨の話です。「家を掃いて」とあるから直接家事を行っていた女性で、しかも大勢の人が食卓に来たわけだから複数人いた下働きの女性ではなかろうか。あるいは取税人や羊飼いの妻たちとも考えられる。銀貨十枚は花嫁道具であり、一枚でも欠けると大問題で、婚約破棄ということもありえるのです。ここでも「見つけるまで念入りに」と言う言葉から、最後の最後まで諦めず、私達を暗闇から救い出そうとされるイエス様のご努力を感じることができるでしょう。

●放蕩息子とその兄の譬えです。当時の財産分与は家督者の死後に行われるもので、生前の財産分与は、一族にとって大きな痛手になるのは必至なのです。一族は失った分を補てんするためにより一層の努力を強いられることになります。長子は全体の3分の2.その他はその3分の1を分け合います。弟にしてみれば、どんなに労苦しても自分は家督を継げず、受け取る者は微々たるもの、さらに、いつでも2番目扱いには我慢ならなかったのかもしれません。この弟のとった行為は全く慣例を無視しています。因習の強いユダヤの国の出来事です。弟の愚行を、全て残された家族が責め受けるのは当然だったのです。兄にとっては「犯罪者」とも思えるこの弟をことのほか大事にする父の様子に我慢できるわけがありません。この物語で、クローズアップすべき人物は弟でも兄でもありません。まぎれもなく「父」です。ここに登場する父とは、「父なる神」のことを指しているのですが、ユダヤ人にとっては「畏敬の存在」ではあっても、「保護者」との感覚はひとつもありません。こうした愚かな子どもたちにひきかえ、登場する父の心の深さ豊かさがかえって際立って見えるのです。「罪人たちを受け入れて」という宗教指導者の言葉を受け、保護者である父なる神の思いを真に受け取ることができたのは誰なのかと諭しておられるのです。品行方正完全無欠な兄つまり律法学者やパリサイ人ではありませんでした。兄や弟が本当に手に入れるべきものは父の財産なのでしょうか。兄はそれが何かを悟ることができませんでしたが、「本当の財産とは「父」との一緒の生活である」と悟ったのは罪びとと自覚していた弟の方だったのです。

●本章は一貫して探し求める待ち続ける神様のお姿を非常に分かりやすく語ってくれ者です。