ルカの福音書14章-2

ルカの福音書14章-2
=本章の内容=
➌祝宴➍自分の十字架を負う➎見込みを立てる➏塩気
=ポイント聖句=ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。(14:34~35)
=黙想の記録=●私たちはここで「二種類の祝宴」の模様を比較することができます。第一は、パリサイ人の宴会そのもので、見返りが期待できる人しか招かないていないのです。第二は、イエス様が開く祝宴で、見返りを期待できない人・社会から疎外されている人・社会的弱者を招いておられるのです。つまり、神の国に招待されると言うことは全く無償であると言うことなのです。
●「義人の復活(第一の復活)は次の四通りです。第一に、イエス様ご自身です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15:20) 」と書かれています。第二は、十字架の直後によみがえった人々です。「また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。(マタイ27:52-53)」と書かれています。第三は、主の再臨までに死んだ人々です。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、(1テサロニケ4:16)」と書かれています。第四は、患難時代に救われる人です。「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。(黙示録20:4)」と書かれています。
●この物語で、祝宴に本来招かれていた人物たちは、「畑を買った」「五くびきの牛を買った」「結婚した」ことが大宴会不参加の理由としていました。そもそも「大宴会」は何の目的があったのでしょう。大宴会は結婚式の儀式後に行われる物です。婚姻の儀式は身内だけ行い、その後身近な友人や隣人を招く宴会を行うのがユダヤの慣習です。ですから「不参加を表明する者」は、最初からこの結婚を認めていないことになるのです。「町の大通りや路地にいる人」はそもそも「町の中に住んでいる人」で、これはユダヤ人を指します。「街道や垣根にいる人」とは、「町にも入れない人々」で、異邦人のことを指しています。
●「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(14:26)と「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(14:27)」の二つの聖句とも「弟子になることはできない」と言っているので、「弟子の基準」を再び述べているのです。前半で話されていた「神の国の住人となること」と「イエス様の弟子となること」には隔たりがあることを再認識させたかったのです。エルサレムに向かうことで、イエス様に従っていく者をわざとふるい落としている気がしてなりまえんでした。
●ここでは「自分の十字架を負う」とは、「自分に課せられた苦難を背負って生きよ」の意味ではありません。「十字架」はイエス様の受難の場所であり、私たちが背負えるものではないのです。ここで言う十字架は、「古き人(肉の欲求)を十字架に釘付けなさい」という意味です。多くの方がこの聖句を間違えて解釈しているようです。
●「すわって考える」とは、腰を据えて慎重に考えることを意味しています。弟子になることの意義を再確認せよとの勧めです。)この「塔」は戦闘に使われていたものです。未完成な塔では戦闘に使えません。またいい加減な塔は作れないのです。つまり代価を払ってもその塔を築くべきかを熟考すべきであるということです。これは、「代価を払ってまで基督者として歩む価値」を再確認させている言葉です。「講和を結ぶ」のは、味方に全く勝ち目のない時に締結するものです。ところが講和を申し出る方には、必ず不利な講和条件が待っているのです。これは、見た目には理不尽極まりない条件を突き付けられているようであっても従えるかを問いただしているものです。弟子たちはすでに「自分の財産全部を捨て」てきている者たち。さらに「捨てよ」ということは、「弟子であり続けること」は決して「この世の栄達の道にはならない」ということを教えたかったのでは。
●塩は自然に潮解(固体が湿気を吸って溶解すること)する物質で、塩気を取り戻すためには火に通す必要があります。火は各種の試練を表している。ここでは「火を通す」の表現はありませんが、その代わりに「役立たず・外に投げ捨てられる」の表現が使われているのです。捧げもの必ず使われるのが塩です。(レビ2:13) を見ると、「穀物の捧げ物」と同時に塩が伴われます。「塩」は献身を意味するものなのです。献身の思いがこの世によって薄まることのない様に最終確認をされているようです。