ルカの福音書14章-1

ルカの福音書14章-1
=本章の内容=
➊水腫を患った人の癒しと安息日➋上座に座ること
=ポイント聖句=しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。(14:4)
=黙想の記録=●宗教指導者たちとイエス様の溝は深まる一方です。彼らは、何とかイエス様の評判をなくそうと躍起になっているのですが、全て空回りするのです。この個所で使われている水腫は外見的にそれとわかるものと思われるので浮腫の一つつまり陰嚢水腫と思われます。陰嚢水腫は男児に多く発生しますが、壮年期の男性もかかる現在でも原因不明の病気です。感染しないことは分かっていても患部が陰嚢だけにとても恥ずかしい病気とも思われる。さらに、当時この病気が発症することは、性的な罪を犯した者の証拠と見なされていたのです。イスラエルの宴会の席は、片仮名の「コ」の字型になっていました。イエス様とこの男性が相対する位置にあることから、コの字の書き始めと書き終わりの位置にいたと思われます。これは上座ではありません。さらに出口に近ければイエス様を本当に軽々しく見ていることになります。薬を塗ったり、手を置く行為は、治療といえども仕事と見なされていたのです。これを安息日に実行した場合はモーセの律法に反する行為です。これを実行すれば、「イエスはモーセの律法を無視している」と断罪できるのです。ところがイエス様のなさったことは、彼らが勝手に決めたタブーを破ることなく、その男性を癒すのです。それは、ユダヤ人ならだれでもしていた単なる挨拶「抱擁する」だけなら薬事行為ではありません。イエス様は抱擁で彼に接触し癒したのです。しかもこの抱擁は、「友と見なされる」者としかしない行為のはずなのです。
●井戸に落ちるというのは故意ではなく偶発的なこと。水腫を患っていた人は偶発的な病気にかかっただけでその人自身に落ち度はありません。「自分の息子」は自分の身内のこと「牛」とは自分の財産のこと。つまり「自分とかかわりがあれば、たとい律法学者と家でも行動するではないか。」「隣人を愛すると言っておきながら、身内ではないので、無視を決めているのは、律法の精神を踏みにじっているのではないか」とイエス様は彼らを責められました彼らは全く反論のチャンスを失っていくのです。
●イエス様がこの宴会の主賓であるなら最初から上座はイエス様に譲るべきです。ところがイエス様に対する尊敬は微塵もありません。彼らは、イエス様を単なる客人として取り扱うことで、貶めたかったのです。肉の性質には「人に序列をつけたがる」ところがあります。イエス様はこの様な振る舞いにケチをつけるような狭量な方ではありません。ここでイエス様は「謙遜こそ神の国に招待される人のあるべき態度」と教えておられるのです。