ルカの福音書12章-3

ルカの福音書12章-3
=本章の内容=
➌再臨に備えよ・良き管理者➍再臨の目的
=ポイント聖句=しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(12:50)
=黙想の記録=●この物語は来臨への備えを説く場所です。キリストのしもべのとしての自覚を促すところです。「腰に帯を締める」とは、「普段着ではなく給仕としての服装をせよ」と言うことで主人に仕える姿勢を絶えずとっていることを意味します。「あかりをともす」とは逆にあかりがともっていない状態は、眠りこけている状態を指します。「主の家にいる」「主人の帰りを待ち受けている」とは、主人の帰宅を楽しみとする待望の様子を教えています。
●どろぼうがテーマではなく「どろぼうの来る時間」のことを述べている。つまり、どろぼうの来る時間とは再臨が起きる時期は予測ができないことを表しています。「時刻を追及するより、万全の支度をせよ」がここでの教えです。「人の子」とあるところから「主の再臨」を意味していることは明確です。忠実な管理者の下には下男下女がいることから、指導する立場の人物であることが伺えます。これは教会を担う弟子たち(長老たち)向けのたとえであることが分かります。「下男下女を打ち叩いている」光景は、直接的には律法学者たちのことですが、同時に現代の教会において支配者の様に君臨し、彼らを暴力(言葉を含む)で従わせようとしている指導者のことでもあるのです。さらに「下男下女に食べ物を与えないで自分で飲食を楽しむ」光景は、主にある兄弟姉妹の心に届くことのない無味乾燥な説教をし、悦に入るのは自分だけの状態を警告しているのです。
●イエス様の受けるバプテスマとは十字架と復活を意味しています。バプテスマは浸礼なので、水の中に沈むということは十字架で死に渡されることを意味し、水から上がることで死から復活される様子を表現しているわけです
●51節から53節は。ミカ書7:6節から7節の引用です。ミカは離散していたイスラエルの帰還と、また新しいイスラエルの指導者がベツレヘムから出ることを預言した人物です。ところがここには次の言葉がありません。「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」メシアを受け入れれば、神の国に帰還できる。そのメシアとは目の前にいるイエス様なのですが、心が塞がれている状況ではそれが分からないのです。
●「天気予報」は統計に基づく予測です。繰り返される条件から法則を見つけ出す作業のことです。律法学者にしてみれば、年間通読しているモーセ五書に他なりません。ところが単に義務的に読むことと黙想することには大きな隔たりがあります。イエス様というキーワードを絶えず中心に据えて黙想することが必要です。
●最後の裁判の話には本来登場するべき人物が欠けています。それは正しく弁護する弁護士です。律法学者に婉曲的に仲介者が必要不可欠であることを悟らせたかったから。この裁判はどんな立派な人間でもその代役はできません。「永遠の死」という量刑を下す父なる神様の前に立ち徹底弁護をしてくださる方はイエス様しかいないのです。一レプタは当時の貨幣の最小単位で約40円です。これはどんなに些細な罪でさへも償いが必要であることを警告したものです。律法学者は、ここに登場してこない弁護士や仲介者の必要性を全く感じていない。自分がその仲介者であると大きな勘違いをしている。こんな状況では、「メシアの到来」を受け入れるわけがない。後半部分はパリサイ派が主体の律法学者への最終警告なのです。