ルカの福音書12章-1
ルカの福音書12章-1
=本章の内容=
➊パリサイ人のパン種・恐れるべき方・聖霊
=ポイント聖句=そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(12:1)
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。(12:4)
●パリサイ派が問題視されています。11章に引き続きユダヤの大祭「過ぎ越しの祭り」を視覚教材として「御子と聖霊」と私たちとの関りを説いておられる箇所です。話の展開がこの祭りの式次第通りに勧められているのです。途中省略されている儀式はありますが。
【式次第と内容】①大掃除②ヤハッツ…覆いがかぶされている(袋の中に入っている)③ツァフォーン…アフィコーメン(割ったパンのこと)を子供が探す④ハレル…詩篇(113~118編から選ぶ)を詩吟のように読む⑤ニルツァ…窓を開けて、「来年こそはエルサレムで」を二回唱える
【12章の内容との一致】①大掃除は「パリサイ人のパン種を取り除く」②ヤハッツは「覆いかぶされているものvs.現わされるの」③ツァフォーンは「隠されているものvs.知られてしまうもの」④ハレルは「暗やみで言ったことvs.明るみで聞かれ」⑤ニルツァは「家の中でささやくvs.屋上で言い広める」と、祭りの式次第と全く一致しています。「バプテスマのヨハネ派」「ナザレ派」は弱小集団で、「パリサイ派」はこの当時最大派閥だったわけです。この過ぎ越し祭は、本来は出エジプトを脱出できたことを主の恩寵とともに記念するためのものでしたが、最大派閥の「パリサイ派」はこともあろうに飯のタネにはしていましたが、民衆の霊的覚醒の為にはなりませんでした。民衆もまた祭りが続けられることを義務感からや、子供も喜ぶビッグイベントぐらいにしか思えなかったのです。この点でパリサイ派の功罪は許しがたいものです。しかしこれから弟子たちによって建設される教会もパリサイ派と同様にならないようにとの警告とも捉えることができます。
●「わたしの友であるあなたがた」の友とは「お友達」の様な軽々しい物ではありません。ここでの友は11章に出てくる旅の途中の友を救った人物と同様です。恥も外聞も捨て父なる神に掛け合ってくださる犠牲心の塊のような方、つまり「子なるイエス様」を指しているのです、「ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方」ですが、ゲヘナとは元来、今日のエルサレム市の城門の外にある、深くて狭い谷底のゴミ捨て場です。そこでは、ごみを処分するために火が燃やされ続け、悪臭を放っていました。また、処刑された罪人の体や、ふさわしい埋葬をされなかった人体が埋められる場所でもありました。ここでは罪人の永遠の滅びの場所であり、地獄をさす場所として用いられています。ここを用意されたのは「父なる神様」です。
●「五羽の雀は二アサリオンで売っている」あるサイトに「マタイでは2羽が一アサリオン約300円といい、ルカでは5羽が二アサリオン約600円で売られている」とある、つまり、5羽買えば1羽はおまけということになる。」との記述がありました。「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」ですが。人の髪の毛は一般的に10万本程度と言われている。10万本もの髪の毛を数えるには根気も時間も必要です。この個所が指し示すのは些細な事でも根気よく接してくださるもう一人の助け主「聖霊」なのです。この直後の話に聖霊が出てくることでもこれが頷けるのです。この聖霊は救いにも関与しています。この方の働き掛けを拒むなら、当然永遠のいのちを得ることができないのです。
●「友として仲介してくださる子なる神」・「妥協のない裁きを下す父なる神」・「繊細にして決して諦めることのない聖霊なる神」のそれぞれの役割が把握できるところです。