最新情報

ルカの福音書11章-1

2024年10月18日

ルカの福音書11章-1
=本章の内容=

➊イエス様の祈りの模範➋旅の友を救う物語と父と子供の物語➌ベルゼブル

=ポイント聖句=

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」(11:1)

=黙想の記録=

●10章が、弟子訓練の中でも「伝道」に重点を置いているのに対して、本章は「祈り」の重要性を説いている箇所です。冒頭の「イエスはある所で祈っておられた」の箇所は、本章全体を解くカギとなっています。
●イエス様の弟子には、もともとバプテスマのヨハネの弟子(ヨハネ・アンデレ)がいました。このバプテスマのヨハネもイエス様同様に一つのグループを持ち共同生活を送っていたと推測されます。言うなれば「ヨハネ派」です。このヨハネ派では「祈り」の時間が設けられていましたが、それは「定型文」を唱える物と推測されます。簡単に言ってしまえば「現代の社訓」の様なものであって、「帰属意識を高揚させるもの」です。「一つ・・・・・。二つ・・・・。」と大声で唱和する例のあれです。弟子のひとりが提案したのは、「ヨハネ派の様な社訓」を作って欲しいというものだったのです。
●ところが、イエス様からの回答はその社訓ではありませんでした。「どのように祈るべきかの模範例」だったのです。その「祈りの言葉」は、ヨハネの弟子だった者の期待を裏切ったかもしれませんが、多くの弟子にはとても新鮮に聞こえて来るのでした。非常に簡潔で、会堂で長々と続けられる宗教指導者の祈りとは全く異なっていたのです。
①「父よ」の呼びかけは驚愕に値しました。当時ユダヤ人の目に「神は畏怖すべき存在」であっても「保護者」とは、映っていなかったのです。イエス様は十字架上で「我が神、我が神」と叫ばれた以外全て「父なる神」と呼びかけています。「父なる神」という呼び方は、神の御子であるからイエス様だけが使える言葉ではないのです。イエス様を救い主と信じる者ならだれもが、この呼び名を仕えるのです。この「父なる神」という呼称がどれだけ基督者を慰めまた励ましてきたことでしょうか。ギリシャの神々の様に支配者として君臨する神ではなく、我々をいつも見守ってくださる「父」なのです。
②「御名があがめられますように、とは、私たちはまず礼拝者であることを、「御国が来ますように」とは、私たちがこの世に属さないことを確認させるのです。
③「わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください」とは、日々に神様の保護の力が私たちを囲っていることを認識させるものです。
④「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。」とは、無病息災を願うものではありません。霊的弱者であることを認め、日々にイエス様の清めを体験することを確認させています。
●旅の友を救う物語(5~8節)は、父なる神様・イエス様、そして私たちの関係を説くものです。旅の途中で資産を使い果たした友とは私たち人間のことです。裕福な友とは父なる神様のことです。そしてパンを求めて裕福な友の所にしつこく押しかけて行ったのは、紛れもなくイエス様のことです。私たちの真の必要性の為には、イエス様自ら父なる神様に掛け合うと約束されている箇所です。
●父と子供の物語(11~13節)は父なる神と私たち基督者との関係性だけを言ってはいません。「卵や魚」を与えずに、我々を欺きいつの間にか死に至らせる毒を持つ「へびやさそり」を提供してくるもの。つまり悪魔の存在を教えているのです。知らず知らずのうちに祈る相手を間違ってしまうことがある事を教えているのです。
●ベルゼブルの話のところは、当時平然と行われていた魔術のことを指摘しています。イエス様がこの魔術を使って悪魔払いをしていると非難しているのです。「悪霊払い」をユダヤ人もしていた事実があります。(使徒19:11~20節)ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちは「魔除け祈祷師」になっていたのです。ならば、祭司の息子たちを非難すべきだったのですがそれはできませんでした。それは内輪もめになってしまうからです。祈りとは魔術の様なものではありません。祈りは超能力を引き出す呪文でもありません。祈りは、基督者の心を整え、父なる神様に向かわせる為に用意されたものです。