最新情報

ルカの福音書10章-1

2024年8月26日

ルカの福音書10章-1
=本章の内容=

➊弟子たちを伝道派遣する➋良きサマリア人のたとえ➌マリアとマルタ

=ポイント聖句=

ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(10:40)

=黙想の記録=

●70人の弟子たちを派遣する場面ですが、ここは第一回の派遣での弟子たちの失策を踏まえ、派遣先で巻き起こすであろう弟子達の逸脱ぶりを指摘し、注意喚起を行っているものです。これはまた現代の私たちの奉仕への注意喚起でもあるのです。
①「収穫は多いが、働き人が少ない」ですが、「自分たちだけがこの奉仕ができるという特権意識」を持ちやすかったのです。
②「小羊をおおかみの中に送るようなもの」は身体的にも精神的にも狙われやすい霊的弱者であることを忘れているからです。
③「財布も袋もくつも持って行くな。」は前回の派遣の際に家々を渡り歩き、平然と金品をねだっていた節が見られたからです。
④「だれにも道であいさつするな。」は媚びるな、高ぶるなという意味があります。
⑤「『平安がこの家にあるように』と言いなさい。」は、宣教は議論しに行くのではなく、平安を届けに行くことを念頭に起きなさいと言うこと。
⑥「家から家へと渡り歩くな。」は物乞いや托鉢に行くわけではないということ。
⑦最後に「『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」とは、「メシヤがこの村にも来て、救いを教えてくださる」ことを語ることが中心でありなさいと教えているのです。
⑧「コラジン・ベツサイダへの叱責」は、その地域の人々を叱責するのと同時に、弟子たちに向かって、「福音を彼らに拒ませることは危機を招来することでもある。それ故に中途半端にではなく真剣に語りなさい。」とのメッセージが含まれているのです。
●ところが、伝道旅行から意気揚々と戻ってきた弟子たちは、ほかの弟子たちの報告に負けまいとして、誇張して語り出す「報告合戦」をし始めるのです。どんな病人を癒すことができたとか、町々村々でどれだけ歓待されたかとか、人々が自分の話でどれだけ感銘を受けたかなどです。9章でも取り上げられているようにイエス様の威を借りて行動しただけなのに、あたかも一端の預言者のような錯覚に陥っていたのです。「これだけ懸命に使命を果たしてきたのだから、どんな報酬が待っているのでしょう。こうした努力家の私たちのことを、先生、何とも思われないのですか。」と聞こえて来るのではないでしょうか。これは後半のマルタの気持ちと全く同様なのです。マルタがこれらの弟子たちと異なるのは、責任感が人一倍強いところですご、それでも「評価してもらいたい、認めてもらいたい」という気持ちも同等に持っていたのです。この時点では弟子たちもマルタも「キリストのしもべ」としての自覚すら芽生えていなかったのです。
●弟子たちがまじかで見ていた律法の専門家とのやり取りは、律法を遵守することが「永遠のいのち」をもたらすと思うなら、なぜ多くの動物の犠牲が今でも必要とされるのでしょう。この人物との終わりに「持ち物を売り払え」との命令をされますが、イエス様はこのことを指し示していたのです。
●良きサマリヤ人の行為には、弟子たちの宣教活動とは全く異なり、裏表や打算は一切ありません。そればかりか、彼は律法の専門家が成しえなかった「時間や財産の犠牲を払う」行為を見事にやってのけるのです。しかもイエス様は異邦人の様に取り扱われ侮辱を受けていたサマリヤ人に今後のご自分の姿を投影させているのです。
●こうして眺めてみると、本章は弟子たち向けの徹底した「弟子教育」が書かれているのです。そしておよそ教会とは、無償の心によって互いに仕えあうことを実践する場所で、誰かと誰かを比較対照するところでは無いことも舌下に含んでおられるのです。