ルカの福音書9章

2024年8月26日

ルカの福音書9章
=本章の内容=

➊十二弟子の派遣➋国主ヘロデの想像➌五千人への給食➍受難と復活の予告➎イエスの弟子になるとは➏変貌の山➐一人息子の癒しと弟子の無能力ぶり➑受難の予告、弟子になるとは❾エルサレムに顔を向ける

=ポイント聖句=

それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 9:23

=黙想の記録=

●本章の最大関心事は2度出てくる「メシヤの受難と復活」です。ここを中心に紐解く(ひもとく)と他の箇所がその伏線であることが見えてきます。十二弟子がこの時点で福音が核心部分が何であるかを未理解未消化のまま派遣されてしまったと思わざるを得ません。イエス様から特別能力を賜って、ガリラヤの田舎者に過ぎなかった彼らが、一端の宗教指導者や預言者もどきになって村々を意気揚々と歩き回るのです。人気絶頂のイエス様の威を借りてのこの派遣は爽快極まりなかったことでしょう。迫害など起こるはずがないのです。ここには詳細が記されていませんが、彼らはイエス様の元に帰還し宣教報告を行うのですが、福音を語った結果については触れもぜず、専ら(もっぱら)、癒しや悪霊払いの宣教報告を我先にと報告するのです。この状況は現代教会の未成熟ぶりを突いているとは思えませんか?
●国主ヘロデは、殺害したバプテスマのヨハネに次ぐ人物が直ぐに登場することに困惑しました。ヘロデの心は、ヨハネを殺害した罪の報いを受けるのではと言う恐怖心で満たされていました。この恐怖心を払拭する為だけにイエス様との面会を希望するのです。守りたいのは国王としての体面と自分のいのちです。国民に関心など全くなかったのです。
●五千人の給食を終え、最も驚いたのは十二弟子でしょう。この光景は荒野を進んだユダヤ人の腹を「マナとうずら」で満たしたときのことを彷彿とさせたでしょう。給食後集めたパンくずは十二籠にいっぱいでした。配給する前よりも多くなっているのです。ところがこの事件を通じ人々は何を思ったか、イエス様を君主にしようと決起するのです。王になることがイエス様の宣教活動の目的だったのでしょうか。弟子たちは群衆の動きに非常に当惑しながらも胸中には、将来の自分たちの地歩が固まっていくことを夢見るようになったのです。
●変貌の山に連れてこられたのはたった三人(ペテロ・ヨハネ・ヤコブ)でした。この変貌の山にエリヤとモーセが登場させた意義などこの弟子たちには理解できるはずもありません。人がイエス様によって蘇生された事実は知っていても、結局「人は死んだら地に帰る」こと以外の死生観を彼らは何も持っていませんでした。モーセとエリヤは死んだのです。ですからここに登場すると言うことは「復活」して新たないのちを授かったとみる以外捉えようがなかったのです。しかし彼らには理解できないのです。ペテロなどはとんでもない光景を見て舞い上がってしまっていたのです。
●宣教報告が終わった直後に、弟子たちの宣教活動の体たらくぶりが暴露されてしまいます。悪霊に憑かれた子供の父親がやってきたのです。「お弟子たちにはできませんでした。」 の報告に弟子たちは狼狽えた(うろたえた)ことでしょう。彼らの報告には漏れがあったにも拘わらず彼らはその報告を他の弟子たちの手前ひた隠しに隠していたのです。もちろんこの人の息子は癒されましたが、弟子たちの目は曇らされ、イエス様の持つ神の力を思い巡らすことも、また素直にそれを喜ぶことさへできなかったのです。卑しい利得の追求しているときには神様の真実な姿を見ることができないことを教えているのではないでしょうか。
●「エルサレムに御顔を向けて」というフレーズが二度出てきます。重要な言葉であることを強調しているのです。ルカは「旅」と言う言葉を頻繁に使っています。イエス様の地上での旅は「ベツレヘムの馬小屋での誕生」が起点で「エルサレムのゴルゴダ」が終点です。そのゴールに向けて出発しようとするのです。ですが、このメシヤの受難の意味の分かる人は弟子の中にすら存在していないのです。「イエス様の3年半が徒労に終わってしまう」ことを敢えてルカはここで表現したかったのでしょう。しかし、悪魔にはそう見えても、イエス様の十字架の死と復活後に起こされる教会の姿をイエス様はまっすぐに見据えていたのです。イエス様には失敗は絶対にありえないからです