ルカの福音書8章
ルカの福音書8章
=本章の内容=
➊旅に同行していた人々➋種まきの譬え➌家族の来訪➍嵐の中のイエス様➎ゲラサでの事件
=ポイント聖句=その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。(8:1)
=黙想の記録=●本書9章・19章には二段階の弟子たちの派遣物語が続きます。そして11章にはあの有名な「主の祈り」がありますが、この3章は言わば今後この弟子たちによってもたらされる教会と宣教活動の原型を想起させます。そこで8章・9章を眺めてみると、そこにはあるのは奇跡のオンパレードです。これらの奇跡は、今後の弟子たちの活動への伏線となっているのです。
●イエス様一行がナザレ派という田舎者の小グループから、日本で言えば九州全域や四国全域程の住民を熱狂させる様になってきたのです。ところがこの集団は、「現政権を打倒し、新秩序を構築せよ」などと言う様な政治結社的色彩は一つもありません。そればかりか、冒頭の1節には平和を望む多くの女性が存在していたことが書かれているのです。しかもそこには貴賤による差別がないのです。悪霊に憑かれていた女性もいれば、財産家の有名な女性もいたのですから。利権に群がる集団ではなかったのです。ギリシャ人にも今までに見聞きしたことのない特異な集団として映るのです。
●種まきの譬えは、宣教に赴く弟子たちへの訓示です。弟子たちの今後の宣教活動地には様々な人が待ち受けていることを言って聞かせているのです。イエス様の活動の様に、人々が諸手をあげて歓迎してくれるわけではないのです。「道端・岩の上・荊の覆う畑」の様に心の整えられていない人々の方が、「良い地」の様に良く心の耕されてる人の数倍も多いのです。しかし心の耕された人の数がわずかであったても、様々な点で実を結ぶようなことがあれば、それは多くの人を感化していくのです。
●イエス様の兄弟の話は、「このグループでは血のつながりよりも、もっと濃い絆を持つことできる」ことを知らせるための挿入話です。
●後半に出てくる与通の奇跡もまた、弟子たちへの強烈なメッセージが込められています。イエス様の説こうとしている「神の国の奥義」は単なる精神世界のものではなく、誇張のない一事件として目で見ることができるほど実体のあるものだったのです。まず、「船上で嵐に遭った弟子たち」が見たのは、自然の脅威にも微動だにしないイエス様のご様子でした。古代、自然の脅威は神々の気まぐれが原因で引き起こされる物と思われていたのです。言うなれば「神々は人類の敵」でもあったのです。ところが、イエス様はこの「自然を統治される方、つまり創造主である」ことを弟子たちは目の当たりにするのです。
●「ゲラサの悪霊憑きの男を正気にする」のゲラサはガリラヤ湖南東部の広大な地域のことで、ギリシャ人の住む植民地でもありました。その為彼らの食生活を満たす為に養豚業が盛んだっのです。この悪霊憑きの男を含めこの地域の人々は、生活の安定の為だけに、ユダヤ人である事を捨てた生活(不潔な生活)を送っていたのです。想像の域を超えませんが、ギリシャ人の生活様式をまね、飲酒や遊興の類に身をもち崩す人もいたのではないでしょうか。その様な悪習慣がこの男を産んだのかも知れません。魂は存在します。そしてこの魂は闇の世界に全く支配されることがあるのです。悪霊が乗り移った先は多数の豚で、これらを失うと言うことは生活基盤を失うということで、強制的に生活を改めなければならないのです。この事件は「神の望む悔い改めとは何かを否応なく教えるもの」ではないでしょうか。人は何かを失わない限り気付かないことが多いのです。同時にこの個所はこの男を支えて家族の物語でもあります。(黙想の記録マルコ5章を参照)
●最後の二つの話は「十二歳・十二年間」で括られた物語です。不幸は「突如訪れる」場合と「長く続く」場合の二者があることを暗示しています。十二年間婦人病で苦しんでいた夫人は、この不幸が長く継続したことで治療の為財産を失ってきました。方や十二歳の子供の突然の病と死で家族は愛する存在を失うのです。つまり「不幸とは何かを喪失すること」なのでしょうか。ここでイエス様が与えた物は、「治療費や慰めの言葉」ではありません。与えたのは「イエス様のいのち」そのものです。弟子たちがこの二つの事件から学ぶべきだったのは「イエス様のいのち」つまり「神様が与えるいのち」の存在でした。彼らの福音説教のテーマは実にこれに在りましたが、この時点では弟子たちの中でこれを悟ることができた人物は誰一人としていませんでした。