ルカの福音書7章

2024年8月26日

ルカの福音書7章
=本章の内容=

➊癒しの実態(①百人隊長のしもべ②やもめの息子の蘇生)➋ヨハネからの質問(①イエス様の回答②ヨナネを評価する)➌香油を塗った女性➍金貸しの譬え

=ポイント聖句=

ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』とヨハネが申しております。」(7:20)

=黙想の記録=

●ルカの記述方法には一つの法則が見て取れます。それは最大関心事の前後に必ず伏線となる物語を編み出してあるのです。最大の関心事はヨハネの去就についてです。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」のヨハネは今、投獄され死刑を待つ身でした。預言者の自覚を持っていたとは言え、「メシヤであるイエスは、投獄された私に無関過ぎるのではないか。なぜ解放に動かないのか。」この言い知れない不安が、ヨハネの弟子をして斯く質問させたのです。ところが、イエス様は「遅くなることはない。きっと助け出すから。」とは応えず、イエス様のなさった奇跡について熟考せよとばかりに「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。」と突き放す様に応答するのです。
●前半で、「百人隊長の僕の癒しとやもめの息子の蘇生」が、ヨハネの質問に先立って書かれていますが、この部分が実は伏線なのです。つまり「百人隊長の僕」の一件は、魂の解放は単にユダヤ人だけに限定された物ではなく、全世界の人々を対象としたものであること。「やもめの息子の蘇生」の一件は、イエス様はいのちの源そのものであること、そして数々の癒しの業は古から預言されていたメシヤとしての資質であること、つまり、イエス様がメシヤであることを確信させるものでした。さらに預言されたいるメシヤの最大使命は自らの体をもって贖罪の死も遂げることを悟らせる為でした。ところが、この答えはヨハネにある決意をさせる為の重要なメッセージでもあったのです。それは目前に迫るヨハネ死は単なる通過点であってゴールではないことなのです。これを以てヨハネは預言者として潔く散っていくことを決意するのでした。ヨハネからの遣いが戻ってしまった直後、イエス様は最大限の賛辞を贈るのですが、これはヨハネへの手向けの言葉として聞こえて来るのです。
●後半部にはイエス様の足に香油を塗った女性と金貸しの話が付け加えられていますこのテーマは「罪の赦し」がテーマです。宗教指導者たちにとって、毎週、宮で犠牲をささげる行為こそが神様の赦免を得る道だと言いたいのです。そして「罪を赦すのは神以外にはできないこと」と主張するのです。ところがその行為は義務感からであり、ヨハネが叫んできた「悔い改め」とは程遠いものでした。「罪深い女」と思われていたこの女性のことをなぜ宗教指導者は知っていたのでしょう。そして声に出して彼女を追い払えないのはなぜでしょうか。彼らの中には彼女と懇ろ(ねんごろ)の関係だった男がいたかもしれないのです。より罪深い人物とは、彼女の素性を知っていた宗教指導者の男性の方ではないのでしょうか。「中風の男を癒した」あの事件以来、イエス様を救いの主として受け入れる者は同時に、イエス様が罪を赦す権威を持っていること、そして神に近づけるのはこの方にすがるほかに道はないと悟るのです。想像の域を出ませんが、遊女ラハブの様に、家族を支えるためにしかたなく身を売っていた女性かもしれません。他に手段が見つからなかったからです。でも目の前にこんな罪まみれの人間でも赦して受け入れてくださる方がいる。香油を注ぐ行為は、感謝の気持ちの表れだったのです。この行為から、彼女が過去の生き方を捨て去り、イエス様に人生を委ねる重大な決意をしたとも感じ取れるのです。
●救いには、人生を一新させるほどの悔い改めの決意が必須です。真の悔い改めがある時、「赦し」を経験でき、その赦しの体験が、信仰の道へと進ませる原動力となるのです。