ルカの福音書6章
ルカの福音書6章
=本章の内容=➊安息日論争(①麦の穂を摘む②人を治す③)➋弟子の任命➌山上の垂訓➍盲人の手引き➎家を建てた人の譬え
=ポイント聖句=の人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。 (6:28)
=黙想の記録=●公生涯がスタートし、みるみる人々が集まってきても、ユダヤ人にとっては単なるユダヤ教の一派と目されているだけでした。(使徒24:5参照)しかも、イエス様はその首領とされていただけです。この一派の主要目的は何か、自分たちの生活に影響はないのか興味津々だったのがユダヤ教指導者でした。しかもこのグループには教養のない連中ばかり、また財力のない者たちばかりが集まって来ていたのです。ですからユダヤ教に精通する者にとって、鼻につくこの連中を何とか抑え込みたいとの思いから「安息日論争」を吹っかけてきたのです。
●麦の穂を手で磨り潰して食べるなどと言うことを弟子たちは常習的に行っていたようです。指導者にすれば、「イエスの弟子どもは田舎者」にしか映っていないのですが、これ幸いと、この一派の芽を摘む行為に打って出ます。「安息日に麦の穂を摘むとは何事か。これは律法への違反行為になるそ!」と牙を向けます。ところが聖書に精通しているはずの彼らは、かえって大恥を掻くのです。「ダビデとその一行は、本来、祭司しか食べることを許されていない「神殿の聖別されたパン」をアヒメレクからもらい受けるのです。しかもこの日は何と「安息日」です。(サムエル記第一21章)特例はすでにあったのです。でも、違反行為ではないのです。
●手が萎えている人は普段から会堂に来ていました。しかし、指導者はここで彼を「じっと見ていた」とありますが、この人への同情はおろか、関心さへ全くなかったと言えるでしょう。彼らの関心はもっぱら会堂に集まってくる財力のある人々の献金の額だけでした。彼らにとっては、この既得権を奪われそうになることが心配なだけで、「安息日論争」はイエス様から人々を連れ戻す、起死回生の方法と思われたのです。しかしこれも空振りに終わってしまいます。「すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。(6:11)」のはこの為でした。
●十二使徒を選ばれたのはこの直後の出来事でした。さらりと攻撃を躱す(かわす)イエス様をあっぱれと思ったのは他ならないこの弟子たちです。イエス様は彼らを「使徒」と呼び。特別な任務をこれから課そうとするのですが、彼らにはこれといった規範が何一つありません。「山上の垂訓」はこの律法に替わる弟子たちの行動規範だったのです。ですが、この垂訓は律法に逸脱したものではなく、ユダヤ教の求める人間像に過ぎなかったのです。この垂訓の内容は、大変水準が高く、この時点では、これらを実行できる弟子たちはいなかった筈です。「この世で財を築け」「須らく頂点になれ」とは言われていないのです。この垂訓はあくまでも「他者に仕える」基督者の姿勢を説いたものでした。
●締めくくりにルカは「家を建てる」ことの譬えを使っていますが、これは弟子たち向けのものです。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建て」るの家はすでにイエス様が意識しておられた教会とは言えないでしょうか。今後、「教会建設」は弟子たちの双肩にかかっています。これからの労苦は並大抵なことではありません。「人生の深みの中でしか見つけられない岩なるイエス様を土台として教会を建設せよ」と置き換えられるのではないでしょうか。一地方の単なる一派と思われていたものが全世界に拡大していくとは、誰が想像できたでしょうか。