ルカの福音書2章-2
ルカの福音書 2章-2
=本章の内容=
少年イエスのメシヤ宣言
=ポイント聖句=すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」ルカ2:49(新改訳2017)
=黙想の記録=●両親とまた兄弟達と過越の大祭に参加する為エルサレムに上った時の話です。全く人騒がせなイエス様の無責任な行動に憤懣遣る瀬無い両親が叱るのも無理はないでしょう。ところがイエス様のこの小生意気な返答。「ごめんなさい」から始めるべきでしょ?そんな風に思ったことありませんか。
●ユダヤ教の成人式は男子がバル・ミツバとよばれ13歳、女子がバット・ミツバとよばれ12歳です。ミツバとはユダヤ教の戒律のことであり、神の前に戒律に照らし合わせ、自分の行動に責任を持たなければならない大人の年齢に達したことになるのです。これはまたユダヤ教の一人前の信者としてシナゴーグに加えられる歳でもあります。
●ルカの福音書2章はイエス様の誕生から公生涯を始める前のご様子を紹介しています。誕生直後には天使が、東方の博士たち(マタイ2:2)が、そして献児式の際にはシメオンとアンナによって誕生を祝福されていますが、同時に彼らはイエス様が「メシアであることの宣言」も行っているのです。この流れからすると、この2章最後のこの事件もまた「メシア宣言」に関わるものと思えてきませんか?
●本書の著者ルカは、過越の大祭の時のイエス様の年齢を「12歳(42節)」とわざわざ表現しています。さらに畳み込むように「少年イエス(43節)」と書き記しています。この「少年」は英語でChildですが、ギリシャ語で「pais」 で、少年以外にも、「しもべ」と言う意味がありますが、この「pais」は成人式前に使われる子供の総称です。蛇足になりますが、母マリヤが勢い愚痴を漏らしてしまったのも、成人前の子供であったからで、13歳の成人式を迎えた後では、自分の子供と言えども公衆の面前で迂闊には叱ることはできないのです。不思議に思えませんか。ルカはユダヤ人にとって大事な人生行事、13歳で行う「成人式」の様子を全く記録していないのです。ユダヤ教の「成人」つまり「大人の自覚」を否が応でも持たされる年齢13歳に到達する前に、すでにイエス様はご自分が何であるのかを「自覚」しておられたとは言えないでしょうか?
●ヨセフとマリヤは同じエルサレムの宮で献児式を行った時、二人の人物から我が子の行く末について既に聞き及んでいるのです。そしてイエス様ご自身もエルサレムに来る度に、両親からこれらの特異な状況や彼らからのメッセージを聞かされていた筈です。つまり、イエス様は「単なる無邪気な子供」ではなく「ご自身の行く末」を既に「自覚」しておられたは言えないでしょうか。「旧約聖書が示すメシアは自分自身ではないか」との自覚です。
●49節のイエス様の返答に目を向けてみましょう。「父の家にいる」と日本語訳されたものは、英語では「business」、ギリシャ語では「patēr」となっていて、この文の下りはいずれも「父の仕事に専念する」と訳されるはずです。「父の仕事」つまり「メシア」としての使命を、この時既にイエス様は自覚されていたのです。つまりこの返答は両親に対する非公式な「メシヤ宣言」だったと言えるのではないでしょうか。しかし、両親はそれに気が付いていなかったと記述されています。それは裏を返せば、両親が意識して特別扱いをしていなかったことを表現したものです。