士師記19章-2

士師記19章-2(19:22-31)
=本章の内容=➌人間性の崩壊❹イスラエルの崩壊の序曲
=ポイント聖句=25,しかし、男たちは彼に聞こうとしなかった。そこで、その旅人は自分の側女をつかんで、外にいる彼らのところへ出した。彼らは彼女を犯して、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を放した。
29,彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側女をつかんで、その肢体を十二の部分に切り分け、イスラエルの全土に送った。
➌22-26節:人間性の崩壊・・・イスラエル全部族を敵に回したベニヤ民族が存亡の危機に陥ったのは以下のギブア事件が発端でした。この町の様相はアブラハムの時代に登場するソドムとゴモラの様相を呈していました。(創世記19章)ギブアの住民の宗教の記述は一切ありませんが、同性愛が蔓延る様な地ですから当然エホバ信仰の片鱗もなかったのです。律法の持つ高い倫理観は地に落ちたままだったのです。(同性愛は律法によって禁じられた行為でこの律法を犯した者は死罪となるのです。(レビ記18:22)さらに町にならず者が幅を利かしていたのですから治安も行き届いていなかったのです。ギブアのならず者たちはレビ人一向が町を訪れていたことを早くも察知していました。ソドムの住民がロトの家族を襲った状況がこのギブアでも再現されてしまったのです。ロトの時も自分の二人の娘を暴漢の餌食にしよう差し出しましたが、この時もそれと酷似したことが起きたのです。レビ人一向を招き入れた老人は自分の娘を二人を暴漢に差しだそうとしたのです。創世記19章ではのソドムの住民に襲われそうになった時には天使がその力を発揮して難を逃れます。これはアブラハムのロトへの執成しの祈りの結果ですが、ギブアではレビ人一向の安否を祈る者は背景に出て来ないのです。老人も良き習慣を忘れはしませんでしたが肝心の主なる神様へ信仰心はもっていなかったことになるのです。レビ人がとっさの行動を取ったのは自分の側室を暴漢に差し出すことでした。レビ人の側室に取った態度はあまりにも冷酷無比です。「25つかんで」は英語で「seiz」(①握る②つかむ③捕らえる)とあり、旧約聖書の他の巻でも②③の意味で使われています。19:3節でレビ人が側室に自分の元に戻る様に懇願したのは愛情からではなかった様に思えてくるのです。レビ人に本物の愛があるのなら身を挺して彼女を守るはずです。ここで見え隠れするのはレビ人の打算です。恐らく側室はこの夫の行為に絶望しこの時点で心は死んでしまったのです。ギブアの住民(ベニヤミン族)はこの後彼女を犯して夜通し朝まで暴行を加え夜が明けるころに彼女を放したのです。この男たちの行為はユダヤ史上最悪のものです。神はあらゆる形態の強姦を禁じておられます。既婚女性を強姦した罪で有罪となった者には死刑が科せられるのです。(申命記22:25-27 )まさにギブアは無法地帯だったのです。身も心もズタズタにされた彼女はレビ人がいる場所にどうにか辿り着きます。しかし戸口に手をかけた途端彼女は息絶えるのです。彼女はレビ人から捨てられたのです。しかし皮肉なことに自分の死をもって身内を救ったのは紛れもなくこの側室でした。
※聖書は異性にしても同棲にしても婚姻関係以外の肉体関係を禁じています。これには,性交,他者の性器を刺激することなども含まれています(レビ記18:22,コリント第一6:18,コロサイ3:5,)
❹27-31節:イスラエルの崩壊の序曲・・・レビ人は彼女が凌辱されている間何を考え何をしていたのでしょう。暴行の挙句に殺されたとでも思っていたのでしょうか。「28,彼は女に「立ちなさい。さあ行こう」と言ったが、何の返事もなかった。」の言葉にどのような感情が含まれているのでしょうか。生きて戻ったことを意外と思っている節が見えるのです。彼女の遺骸を自分の居住地に連れ戻したのはどんな目的があったのか彼の行動を見れば明らかです。彼女に愛情の片鱗でも残っていれば丁重に葬ってあげたことでしょう。しかしここで見られる残虐な行為は明らかに自分の正当性を強調するものです。第一に姦淫を犯した者に神の天罰が下ったことを居住地のいる者達に知らせたかったのではないでしょうか。第二に彼女の死はギブアの住民の無法な行為つまり神を神とも思わぬ所業から来ていると主張したかったからではないでしょうか。事の始まりはレビ人が側室をベツレヘムから迎えたことにあるのです。さらに姦淫の罪より自分の肉欲を優先したことの結果なのです。彼女の遺体を切り刻み12部族に送ったのは、ギブアの人々への個人的な復讐が根底にあり、全イスラエルを上げてギブア人を抹殺しようとしたかったからではないでしょうか。彼の短絡的な思いはやがて一部族の抹殺という大事件を引き起こす要因ともなるのです。正にイスラエル崩壊の序曲を作り出してしまったのです。
※信仰初期の段階で、神様に一一お伺いを立てたりあれもダメこれもダメと窮屈な生活を強いられていると感じたり、何か試練に出会うと神様は自分を理不尽な取り扱いをすると不満を感じたりすることがあります。こうした時に士師記のイスラエル諸部族の様に、いとも簡単にこの世の幸福のスケールで人生を浪費しようとする場合があります。この場合神様が居た心の王座が空席になった訳ですからこの心の空虚感を満たすために信仰を持つ前より更に酷い基督者の暗黒時代に陥ることがあるのです。ところがこうした基督者の暗黒時代にも何かの災害や困難に次々と遭遇することがあります。そんな時「なんでこんな目に遭うのだ。神様が居るのだったら救ってみろよ。」などと神様に向かって歯ぎしりしている自分にハッと気づくことがあるのです。実はこの不平不満を漏らすことこそが信仰が生きている証拠なのです。また神様がこの試練を自分の前に置いていると自覚している証拠なのです。神様は決して私達基督者を見捨てる方ではありません。士師記のイスラエルは暗黒時代に突入していましたが、この暗黒状態の原因が主なる神様から心が離れていることをまだ自覚できない状態だったのです。