士師記16章-2

士師記16章-2
=本章の内容=

➌髪の毛を剃る❹サムソンの最期

=ポイント聖句=

21,ペリシテ人は彼を捕らえ、その両目をえぐり出した。そして彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。

=黙想の記録=

サムソンはナジル人の3つの誓いのうち「①ワインと強い酒の断酒」「②死者との接触を避ける」を破っていました。残るのは「③頭から髪の毛を切ること」です。16章後半でいよいよ全ての誓いを反故にするのです。その結果壮絶な死を招くことになります。しかしその死をもってサムソンは初めて主の御心を遂行する献身者となりえたのです。

➌17-21節:髪の毛を剃る・・・恋は盲目にさせる典型例です。恋は人を夢中にさせ、理性や常識を失わせるものですが、こうした事態は古今東西を問わず起こりうることです。サムソンは終に根負けしてデリラに秘密を打ち明けてしまいます。「17,実は、私の頭にはかみそりが一度も当てられたことがないんだ。私は生まれる前から神にささげられたナジル人だから。もし髪がそり落とされたら、私の力もおしまいさ。ほかの人と同じになるんだ。(リビングバイブル)」ところで、この聖句に関して誤った説明がされています。それは「髪の毛に主なる神様の力が宿っている」かのような説明です。髪の毛そのものに神通力はありません。髪の毛を剃らないことそのものに意義があるのです。それはナジル人の誓いに従い「髪の毛を伸ばし続ける」で、「主のことばに従い続けること」を主なる神様と他者に表明しているのです。ですから自ら髪の毛を剃るのならその時点で「私はナジル人ではない。」と宣言してしまったことになるのです。神様の味方でない者にどうして神様は味方できるでしょう。ですから力が伴わなくなったのは当然の帰結なのです。「20,・・・彼は、主が自分から離れられたことを知らなかった。」とあり、その後捕縛されただけでなく両目をえぐり出される傷を負うのです。自分は神に選ばれた特別な存在なのだという間違えたプライドが両目とともにそぎ落とされる瞬間でした。目が見えなければ肉欲を満足させることはできません。「21,・・・青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。」とありますが、自由を奪われただけではなく、かつてサムソンが軽蔑していたであろう奴隷として力仕事に従事させられているのです。来る日も来る日も単調で全く刺激のない生活を送ることになったのです。しかし元の自由奔放で快適な生活に戻ることができないサムソンは自暴自棄になっていません。この単調で全く刺激のない生活こそがサムソンの真の悔い改めを促す要因となったことは疑う余地がありません。

❹22-31節:サムソンの最期・・・「22,しかし、サムソンの髪の毛は、剃り落とされてからまた伸び始めた。」とありますが、再度言いますが髪の毛そのものに神通力はありません。髪の毛が伸び始めるくらい長期間彼は奴隷生活を強いられたということを説明しているだけのことです。この期間が彼に悔い改めを促し、自分に課せられていた士師としての務めを自覚させたのです。ペリシテ人の領主たちは自らの祭りの生贄としてサムソンを捧げることにします。つまりサムソンを死刑に処すわけです。王子の様な贅沢三昧の生活をしていたサムソンはそこに居ません。ペリシテ人の嘲笑の的になるような泥だらけの身体、盲目にされた哀れな奴隷にしか見えないのです。しかしここで見落としがちなのは、彼の強靭な体力です。かなりの長期間毎日石臼を引いていれば否が応でも体力が付いているはずなのです。実はここに神様によって身も心も鍛錬された新しいサムソンが出来上がっていたのです。『25-27いいかげん、みなの酔いが回ったころでした。「サムソンを連れ出せ! 見せ物にして楽しもうじゃないか」という声が上がりました。サムソンは牢から引き出され、神殿の中央の大屋根を支える二本の柱の間に立たされました。彼は手を引いている若者に頼みました。「両手を二本の柱にすがらせてくれ。寄りかかって休みたいんだ。」この時、神殿は立錐の余地もないほど、人で埋め尽くされていました。五人の領主も臨席しており、バルコニーにも三千人の男女がひしめいて、サムソンの様子をおもしろ半分に見つめていました。(リビングバイブル)。』サムソンの檜舞台が整いました。『28サムソンは主に祈りました。「ああ神、主よ。どうかもう一度、私のことを思い出してください。今一度、力をお与えください。ペリシテ人にえぐられた二つの目の復讐をさせてください。」(リビングバイブル)』最期の祈りの言葉です。両眼はえぐり出されて何も見ることができませんが、心の目ははっきりと主なる神様に向いています。ここには肉欲のままに放縦な生活を続けて来たサムソンはいません。いるのは、自分の死をもって神様の御心を遂行しようとする献身者つまり本物のナジル人の姿しかないのです。二本の中柱を探り当てそれを押し出すと即座に神殿が崩れ落ちます。そしてその中にいたペリシテの領主たちと三千人のペリシテ人が倒壊した建物の下敷きとなっていたのです。「31その後、サムソンの兄弟や身内が来て遺体を引き取り、郷里に運んで、ツォルアとエシュタオルとの間にある、父マノアの墓に葬りました。サムソンが士師としてイスラエルを裁いたのは二十年間でした。」

■サムソンの物語のまとめ・・・士師の資質からいけばサムソン程不適格者は登場していません。血気盛んな青年期壮年期を肉欲まみれの放縦な生活しかしてこなかったのです。事件の後始末を親に丸投げするなど親不孝の極みです。凡そ神の使命を担えるような資格はありません。しかし主なる神様はサムソンを用いているのです。これこそが神様の御計画であると考えると神様の深い御愛に誰でも触れる資格があり、神様の御用を担える資格があることを学ぶのです。

=注目語句= =注目地名=

士師記

Posted by kerneltender