士師記11章-2

士師記11章-2(11:29~40)
=本章の内容=

❶エフタの徹底抗戦と衝動的な誓い❷エフタの娘の反応➌エフタの娘を悼む行事の始まり

=ポイント聖句=

30-31,,エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」

=黙想の記録=

❶29-33節:エフタの徹底抗戦と衝動的な誓い・・・神の力強い霊に導かれエフタは集合した兵を率いてアンモン人の領土で徹底抗戦をかけアンモン人を屈服させます。ここで「主の霊がエフタの上に下った」とありますが、これは超能力が備わったという意味ではなく、素早い判断力決断力が発揮されたとみるべきでしょう。これも御霊の賜物です。ところがこの戦いに臨むにあたりエフタはとんでもない請願を立ててしまうのです。それは戦いに勝利した暁にエフタが最初に出会った人を全焼の生贄として捧げるというものです。人を供物として捧げるのは異教の習慣です。さらに我が子を生贄にするのはモレク礼拝。これは明らかに律法に抵触しています(レビ18:21)。ユダヤ人の歴史に精通していたエフタがなぜこのような異教的請願を立てたのでしょうか。以下の様なことが考えられます。

1.エフタにはギデオンなどの士師の様に明らかな主の召命はありません。しかし「主の霊がエフタの上に下った」との記述からもエフタを御用の為に使われることは確かです。ところがそもそもエフタが参戦する動機は主なる神の御心を遂行するというものではなく、自分を見下していた者達を逆に見下すことにあったのです。土地問題に関しての情報には並々ならぬ関心があったのですがユダヤ教の根幹である律法には無関心だったのではないでしょうか。ですから彼の脳裏に浮かんだのは戦勝祈願の為に行っているアンモン人の習慣、モレク神への人身供養ではなかったとは言えないでしょうか。

2. エフタの自信過剰が衝動的な言動に走らせたとは言えないでしょうか。「30, もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、」と彼は主なる神様に対して交換条件を申し出ていますが、こうしたエフタの請願を待たずとも主なる神様はエフタに勝利を与えたはずです。「もし・・・」は「もしあなたが神の子なら・・・」の悪魔の試みの時に発した言葉です。この言葉は主なる神様を見下すものです。彼には神様の顕現がありません。ですから、神に対する畏敬の念が欠けていたと思われるのです。勝算が少しでも見えて来たことに対するエフタの驕り、言葉を換えれば自信過剰がこの衝動的な請願をさせてしまったのではないでしょうか。エフタに欠けていたのは「主なる神様の御心を求めながら歩む」謙遜を伴う信仰姿勢だったのです。

※アンモン人とモアブ人が信奉していたのはモレク神でした。古代のヨルダン東部に住んでいたアモン人達からは、豊作や利益を守る神として崇拝されており、彼らはブロンズで「玉座に座ったモレクの像」を造り出し、それを生贄の祭壇として使っており、像の内部には7つの生贄を入れる為の棚も設けられていた。そしてその棚には、供物として捧げられる小麦粉、雉鳩、牝羊、牝山羊、子牛、牡牛、そして人間の新生児が入れられ、生きたままの状態で焼き殺した。新生児はいずれも王権を継ぐ者の第一子であったとされる。また、生贄の儀式にはシンバルやトランペット、太鼓による凄まじい音が鳴り響き、これは子供の泣き声をかき消す為のものとされている。(Wikipedia)
※神様は「ギブアンドテイク(give and take)」を求めていないのです。信仰の初歩を歩む基督者が自分の力を過信している時に、履行できるかどうかも分からない誓いを立てやすいのです。それは悪魔の罠にはまり神様を試みていることだと承知してください。

❷34-38節:エフタの娘の反応・・・戦いに勝利し故郷に凱旋を飾ろうとしたとき、目の前に出て来たのは自分の娘でした。どれだけエフタにはショックだったことでしょう。ここで素朴な疑問が湧いてきます。エフタの請願は公に成されていた筈です。この請願の内容は事前に伝わっていなかったのでしょうか。戦地からの戦勝報告は本体より先に送り出されているはずです。もし公言していなければ誓いは勝手に反故にすることができたはずです。しかし事態は最悪の方向に向かっているので、この請願は公言していたとしても最重要機密だったのでしょう。リビングバイブルはエフタと娘の残酷な出会いの場面を生き生きと翻訳しています。『34-38エフタが家に戻った時、なんと彼のひとり娘が家から出て来て、大喜びでタンバリンを鳴らし、踊りながら駆け寄って来ました。娘を見て、エフタは胸を引き裂かれる思いで着物を引きちぎり、叫びました。「ああ、なぜこんなむごいことに! いったん主に誓いを立てたからには、もう取り消すわけにはいかないのだ。」すると娘は言いました。「お父様、どうか主にお誓いになったとおりになさってください。主は敵のアモン人をやっつけて、こんなすばらしい勝利をもたらしてくださったのですもの。』故郷に錦を飾る父の表情に絶望の色を感じ取った娘は、その理由を知り愕然とするものの、父の痛みをわが身に置き換え健気に返事をしているのです。ギルアデの長老たちが主の前に誓ったことを逆手に取ろうとしたエフデですが、逆に主に請願することの厳粛さを自ら体感してしまうのです。娘のその後については諸説ありますが、私は文字通り娘が全焼の生贄となったと思います。もしこの請願内容を反故にしてしまったら、ギルアデの長老たちも自分たちの請願を反故にしてしまうからです。

➌39-40節:エフタの娘を悼む行事の始まり・・・こんな悍ましい出来事がなぜ記念日となったのでしょうか。無論感心の中心はエフタの誓願のことではなく、この娘の「徹底した従順」にあるのです。
※このエフタの娘の従順は正に十字架にまで従われたイエス様の型とは言えないでしょうか。
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。・・・(ピリピ2:8-9)

=注目語句=

士師記

Posted by kerneltender