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ヨシュア記24章

ヨシュア記 24章
=本章の内容=

❶歴史の回顧❷主なる神に恭順を求める➌ヨシュアの死と埋葬

=ポイント聖句=

15,主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。
15もし主に従いたくなければ、たった今、だれに従うかを決めなさい。ユーフラテス川の向こうで先祖が拝んでいた神々であろうが、この地に住むエモリ人の神々であろうが、好きに選ぶがいい。しかし、私と私の家族とは、あくまでも主に仕える。(リビングバイブル)

=黙想の記録=

●2-28節:ヨシュアはシェケムで民を招集し再び遺訓を語り始めます。その内容は以下の通り。
❶2-13節:歴史の回顧・・・カナン全土はイスラエルのものであることの根拠を以下の三区分時代区分にまとめて回顧させます、そこにはいつも主なる神様の介入があったことを再確認させました。
[特記事項①]出エジプトと荒野での生活の時代・・・エジプトの生活の未練を断ち切った
[特記事項②]ヨルダン川東岸での戦闘の時代・・・アモリ人とバラムの策略に打ち勝った
[特記事項③]ヨルダン川西岸での戦闘の時代・・・強敵を倒し次々に入植できた
※以上の三区分は基督者の人生の次の三区分と呼応しています。それぞれの時期に必ず神様の介入がありました。
①罪の奴隷生活から解放されたが昔の生活に未練を残している時期
②人生の節目(進学・就職あるいは起業・結婚)に訪れる誘惑される時期
④ 神様に人生を捧げて生きるものの様々な障害が行く手を阻む時期
❷14-28節:主なる神に恭順を求める・・・イスラエルの歴史はこの世の神々との分離の歴史であり霊的な成熟を成し遂げる(=神様に恭順していく)ステップでもありました。歴史が証明しているようにイスラエルの神(主なる神)様は民に恐怖心を与える異教の神々とは全く異なり、養父のように忍耐深い慈愛の神なのです。信仰を強制してはいません。盲従することを求めておられません。むしろ自由意思を働かせ父親を慕う様に愛する様に信仰していくべきです。
※基督者の人生もまさに悪魔の支配するこの世からの分離でありより成熟した信仰者を目指すためのステップなのです。ですが信仰生活を嫌々ながら送ることを神様は願っておられません。義務感でお勤めを果たすような信仰は本当の信仰とは言えません。それはご利益宗教と大差がないのです。
➌29-33節:ヨシュアの死と埋葬・・・こうしてモーセの時代・ヨシュアの時代が終了しました。現代でも寿命110歳はギネス級ですが衛生観念や医学の発達していない当時では全く考えられないほどの長寿です。イスラエルを指導するために神様が用意された寿命であることを民は認めざるを得ないのです。埋葬地はヤコブが手に入れた場所であり、ヨセフの遺骸も葬られているシェケムでした。ヨシュア記はここで完結しますが、次の士師記にある様に指導者を失ったイスラエルはたちまち背教していきます。残念なことにモーセの時代もヨシュアの時代も民の信仰心は一向に成長していなかったとみるべきでしょう。
※これは現代のキリスト教会と同様なことが言えるでしょう。それは強力な指導者に信徒が盲従しているだけなら、指導者が居なくなればたちまち放縦な信徒の勝手気ままなサロンと化してしまうからです。一人一人の信徒が神様と固く結びつく信仰生活が教育されなければなりません。日曜日の教職者の説教を聞き「今日は心に染みた」とか「今日の説教は全く心に届かなかった」などと批評しているサンデイクリスチャンで終わる様な信徒は正に指導者盲従型基督者なのです。

ヨシュア記

Posted by kerneltender