ヨシュア記17章

ヨシュア記 6章
=本章の内容=
❶カナン分割の記録(4)マナセ族❷怠慢と恐れ
=ポイント聖句=18,山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない
=黙想の記録=●マナセ族の分割地は他のどの部族よりも多く与えられています。「1, ギルアデとバシャンが彼のものとなった。」とありますが、ギルアデはヨルダン川の東の地域のことでで、ヤボクの谷の南北に広がる肥沃な地域を指します。バシャンはもともとエモリ人の王オグの領土でした。バシャンは「なめらかな」「柔らかい」という意味で肥沃な平地を想像させます。ヘルモン山から流れ下る水や雪解け水によりイスラエル屈指の穀倉地帯です。また牧草地も広がっている為放牧地も各地に点在していました。バシャンの雄牛や雄羊は詩歌にも取り上げられるほど有名でした。さらにガリラヤ湖や地中海にも面していたので農業林業水産業の一次産業だけではなく、海運を生かした交易も発展しうる謂わばイスラエルの一等地です。
●3~6節にツェロフハデの娘たちに土地を分割する話が記されています。ツェロフハデには5人の娘が誕生したのですが息子は授からなかったのです。5人の女性の名前は民数記27:1~11に登場してきます。荒野の時代から男性並みにマナセ部族に忠実に仕えて来たと想像されます。この5人は未婚のまま「父の家」を一致協力して継承してきたとも思われます。彼女たちは民数記27:1~11でのモーセの約束を実行するようにと要求したのです。男性中心の当時の社会としてはこの申し出は異例中の異例だったのです。ところがその後民数記36章ではギルアデ族の策略により結果的にはツェロフハデの娘たちへの分割地は名目上無効となってしまうのです。ヨシュア記17章ではこれらの事件を踏まえ再度彼女たちは土地の分割の申し出をするのです。「ヨシュアは主の命により、彼女たちにも、彼女たちの父の兄弟たちの間に相続地を与えた。」との結果になります。ギルアデ人により葬り去られた約束でしたが彼女たちの申し出はようやく実現するのです。ここで現代の基督者は何を教訓としたら良いのでしょうか。その一つは「祈り」ではないでしょうか。神様から召命は御言葉が起源となっています。ところがその召命が実際に実現するには多くの山場を乗り越える必要があるでしょう。後退させるような状況に追いやられる場合もあるでしょう。しかし、神様の御言葉の約束を携えて御計画が速やかに実行されるようにと何度も祈る必要があることを教えてくれる箇所です。
●12~18節ではマナセ族に土地が分割された後の様子が記されています。どの部族よりも広大かつ肥沃な土地を分割されたわけです。ですが唯一の欠点は武力に勝ったカナン人が多くの土地を占有していることで、マナセ族は彼らと対峙しなければなりません。しかも彼らは多くの城壁を構える都市国家を構えていたのです。彼らを追い払うことはかなりの困難を要することは容易に想像できたのです。「13,イスラエル人が強くなったときにはカナン人を苦役につかせたが、彼らを追い払うことはなかった。」とあるようにエフライム族と同様な政策をとります。奴隷化政策は明らかに神様の指示された方法ではありません。やがて奴隷と思っていたカナン人との混血が生まれ異教文化が浸透してしまうのに時間はかかりませんでした。
●「14,ヨセフ族はヨシュアに告げた。『あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほど数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。16,ヨセフ族は言った。『山地は私たちに十分ではありません。しかし、平地に住んでいるカナン人はみな、ベテ・シェアンとそれに属する村々にいる者も、イズレエルの平野にいる者も、鉄の戦車を持っています。』」の申し出は勇者カレブの申し出とは正反対のものです。分割された土地では多くの人数が住むのには足りないと言っているのです。しかし土地が狭いのではなく土地を獲得するための努力を惜しんでいるだけなのです。彼らのしなければならないプロセスとは第一に定住しているカナン人を追い払うことです。第二は広大な森林地帯がありそこを開墾することです。カナン人の鉄の戦車を言い訳にしていますが、かつて彼らはこの武力に対して圧倒的な勝利を見て来たのです。この身勝手な申し出に対しヨシュアは毅然とした態度でこう言い放つのです。「17,ヨシュアはヨセフの家、すなわち、エフライムとマナセに言った。『あなたは数の多い民で大きな力がある。あなたには、くじによる割り当て地が一つだけではいけない。18,山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」』胸がすく一言ですね。要約すれば「甘えてるんじゃないよ」でしょうか。
●基督者は孤軍奮闘している時よりより多くの集団の中に自分を置いている時に弱さがと呈してくるものです。力ある集団にいれば安泰でそれ以上リスクを冒す必然性を感じなくなってくるのです。大きな会堂を持つ教会、特殊技能(賜物)をもつ兄弟姉妹が沢山いる教会、社会的に認められた事業をしている教会、たくさんのイベントができるほどの財政力のある教会に所属していることが魂の平安をより持っていると勘違いしているのです。そんな環境に身を委ねるほど魂に怠慢と恐れが生じてくるものなのです。
そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」(ルカ13:18~19)に登場する木はこのマナセ族のことを指しているのです。そこには空の鳥(=悪魔)が巣食うのです。