ヨシュア記11章
ヨシュア記 11章
=本章の内容=
❶北部連合軍❷モーセの言葉の通り
=ポイント聖句=12,彼らはその全陣営とともに出て来た。海辺の砂のように大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった。(11:4)
主のしもべモーセが命じたとおりであった。
❶北部連合軍
ハツォルの王ヤビンは北部地域の盟主でした。彼の一声で一帯の東西のカナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、山地のエブス人、ヘルモンのふもとミツパの地のヒビ人が集合します。王国の数にして23王国です。推測ですが、南部侵攻で攻め取った王国の数の2倍このなので、それに比例して長期を要したようです。このイスラエル軍の北部進軍も北部連合が戦争を仕掛け、イスラエルは自衛するために迎撃に出たわけです。「海辺の砂のように大勢の兵で、馬や戦車も非常に多かった。(11:4)」とあり、イスラエル軍より兵の人数においても武具においても勝っていたわけです。でも忘れたはいけないのは今回の北部連合軍も付け焼刃で結束の弱さは容易に想像できます。つまり統率されていないのです。メロムの水のほとりに結集したのですが、戦術は個々別々に持っていても連合軍としての戦略は恐らく統一できていなかったことでしょう。メロムの水のほとりに集合したのは、馬たちのためでした。連合軍には奇襲攻撃用の馬や戦車は多く用意されていましたが、それらはほぼ用をなさなかったのです。逆にイスラエルの歩兵部隊に奇襲され、それらの戦術兵器は壊滅されてしまったのです。「歩兵ひとりひとりの全力」が勝利のカギであったともいえるのです。イスラエルは神様が用意してくださった「御言葉への従順」という最高で確実な戦術や武具をもって戦うことが勝利へとつながると徐々に確信していったのです。カデシュバルネアで見た「巨人の様な兵」やイスラエル軍が持っていなかった「近代兵器」はなくても、イスラエルの敵ではないとわかってきたのです、「歩兵による奇襲」とぴう戦術がどれだけ時代錯誤の方法であってもです。以降イスラエル軍が奇襲されることはありえなくなったのです。
💙現代のキリスト教会においても人集めの手段として、斬新なで手段が開発され活用されてきました。それはいわば「余興としてのコンサート」であり「社会事象を取り扱う講演」「終末を予見する講演会」などの演出も含めます。それらは主催する側にわくわくどきどきするような「興奮をもたらす斬新な方法」に見えるのです。しかし、残念ながら一部の人の一時的な関心を引き起こすことができても、少しも魂にまでは届かないということが多いのです。またこうした「斬新さ」はすぐに飽きられてしまうものです。
💗キリスト者において最も効果的な戦術は、イスラエルの歩兵の様に「一人一人の全力」、つまり「隠れたところでの祈り」と、「個人の誠実な証」です。信仰生活の基本が身についていないキリスト者を何千人寄せ合わせてもそれはただの烏合の衆に過ぎないのです。
❷モーセの言葉の通り
「主のしもべモーセが命じたとおりであった。(11:12、15、20、23)」とありますが、これは一見すると、ヨシュアが「モーセに隷属していた」とか「カナン進軍の責任と根拠はモーセにある」といった責任回避を表明するものではありません。ヨシュア自身が主なる神様から直接託宣を受けたわけではありません。ヨシュアは、「モーセこそは主のしもべ」であることを目撃して来たのです。この事実こそが、モーセが自分に命じたことはすべて「主なる神」からの託宣と信じることができたのです。しかし、モーセは進軍した土地については一つも指示したことはありません。モーセは進軍の意義と主なる神が示した聖戦であることをヨシュアに教えただけです。ヨシュア自らが戦闘地域を決めていったわけではなく、主なる神様の導きのままに各地に進軍していきました。つまりカナン進軍は「主なる神様の命」であること「プロセスは全て主なる神様に委ねる」ことをこの言葉が教えてくれるのです。
💗この箇所は現代のキリスト者に、「信仰生活の動機と根拠とは何か」を教えている個所とは言えないでしょうか。「他人(牧師や先輩)の言ったアドバイス」をうのみにするだけで自分で咀嚼すること方々がいます。その為、問題が起きた時にその方々に責任転嫁をすることになるのです。あくまでも自分のものにできている「聖書」が動機や根拠となることが必要です。「聖書を読む」だけではなく「聖書を黙想する」ことを習慣化しないと、聖書にある根拠を見出すことがありません。信仰生活に必要な事柄に関しては、異なる聖書箇所からでも同様な導きを得ることができますが、「単に読むこと」だけなら、「自分にとって都合に合わせて聖句を組み合わせる」だけとなり、それは「我リキが先行する動機や根拠」となってしまうのです。キリスト者が「その時々に経験した事柄と照らし合わせて考えること」が「黙想」です。また黙想にはいつも「祈りが伴い」ます。示されたことについて感謝したり、悔い改めたり、願ったり、とりなしたりしながら黙想しているのです。