太陽と月が停止する

2024年6月29日

なるほどTheBible2022/10/08
=太陽と月が停止する=
【参照聖句】主がアモリ人をイスラエルの子らに渡されたその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「太陽よ、ギブオンの上で動くな。月よ、アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、太陽は動かず、月はとどまった。これは『ヤシャルの書』に確かに記されている。太陽は天の中間にとどまって、まる一日ほど、急いで沈むことはなかった。主が人の声を聞き入れられたこのような日は、前にも後にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。ヨシュア記10章12~14節(新改訳2017)

最初に天文現象としてこの個所を考えてみましょう。この部分の聖書箇所の記述を見ると「太陽は天の中間にとどまっていた」とあります。つまり正午頃ということになります。ところで、夕方や朝方なら上弦・下弦の三日月・半月、そして満月まで見ることは可能ですが、真っ昼間に月と太陽を同時に見ることは不可能です。ですからこれは特異な天体現象を説明しているものではないと分かるのです。

この個所を「文字通り太陽と月が停止した」とするとどうでしょうか。太陽や月が動かないということは「地球が停止する」ことに外なりません。地球が丸一日(24時間)も動かなければ重力はどうなるのでしょう。地球の生物は全て宇宙に放り出されてしまいます。この現象を「日食」とする説があります。しかし、日食の継続時間は最長でも約8分。1日24時間も継続しているはずがないのです。自然の法則を度外視してこの現象を「神のなさった奇跡、神はいかなることも可能な方」は、強引すぎないでしょうか。また太陽と月が停止することが、イスラエル軍のこれからの反撃にどんな効果をもたらすと言うのでしょうか。明るい戦場なら視界良好で兵の動きが明らかになって見えるはず。しかし、これはどちらの軍にとっても不利益にはなりません。

次に兵の位置関係を考えてみましょう。以下の画像をご覧ください。画像クリックで拡大します。

当時イスラエル軍はギブオン周辺に駐留しています。ギブオンはエルサレムの北西9.6kmに位置し、アヤロンの谷はエルサレムの西北西約21kmの所に位置しています。アヤロンの谷はギブオンから西寄りの西北西12.5kmに位置しています。エルサレム・ヘブロン・ヤルムテ・ラキシュ・エグロンからなる5つの連合国軍は、ギブオンの南から南西方向にかけて、エルサレムから半径20km圏内に進軍しています。ですが、すでに敵はギブオン南方に集結していることになります。この位置関係から考えて、太陽が「天の中間」に見える方向、つまりイスラエルの戦場記者から見て「南方方向」に関心が寄せられていることになります。つまり、アモリ人の連合国軍がイスラエル軍と対峙していた方角です。

原語でこの個所を眺めてみると、とても興味深い事実が見えてきます。どう表現されているでしょうか。ヘブル語で太陽と月の動きが表現されているところを見ると、太陽の部分には「דָּמַם(ダーマー)」日本語訳は「黙る、待つ、静まり返る」、月の部分には「עָמַד(アーマド)」日本語訳は「立っている、残っている、召使になる、耐える」です。いずれも「停止する」という意味が見つからないのです。韓国語の聖書でもこの箇所には「停止する」ではなく「滞在する」と言う言葉が使われています。ここまで来ると、もうご理解いただけるでしょう。つまり、この聖書箇所は「太陽と月が天空で停止するという天体現象を意味していない」ということです。

ではこの聖書箇所の太陽と月に関する記述は何を指しているのでしょう。どの人種がどの神を崇めていたかまでは追及できませんでしたが、エルサレム・ヘブロン・ヤルムテ・ラキシュ・エグロン5つの王国国民は「太陽神」や「月神」を信奉していたと推測できます。「太陽神」「月神」をそれぞれインターネットで調べてみるといずれもこの時代に中近東で広く信奉されていた事実が分かります。つまりこの「太陽と月は5つの王国の連合軍のこと」と言えるのではないでしょうか。ひょっとすると彼らの軍旗には「太陽と月」が描かれていたかもしれません。

さらに「太陽は天の中間にとどまって、まる一日ほど、急いで沈むことはなかった。」の聖書箇所は、「イスラエル軍の圧倒的軍事力の前に、連合軍はなすすべがなかった」と言う風に解釈できないでしょうか。つまり、異教徒の連合国軍は、イスラエル兵の兵力に圧倒され、負け戦を強いられ、ただただ沈黙しているようだったとの表現になるのではないでしょうか。

さらに突っ込んだ言い方をするのなら、ヨシュア記そのものが、「短期間のうちにイスラエ軍が斯くも訓練され強大になった」ことを主張したい書物だったのではないかということです。「一つ一つの戦闘によりイスラエルは着実に強くなっていった」ということの表現ではないでしょうか。

‎私はこの個所からの次の様な黙想を得ました。「私たちは途中経過を全く無視して自分の都合に合うように奇跡を求める傾向がある。自分が整備されるのが先なのに、自分の都合の良いように環境がいきなり変化することを望む傾向がある。」「神様は無秩序な方ではない。」「神様の与える訓練を厭うことがあってはならない。」