ヨシュア記9章
ヨシュア記 9章
=本章の内容=
❶ギブオン人の偽装工作の理由❷異邦人に対する哀れみ
=ポイント聖句=9,彼らは彼に言った。「しもべどもは、あなたの神、主の名のゆえにとても遠い国から参りました。(9:9)
25,ご覧ください。今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。
枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、・・・(ローマ11:17)
(1)カナンにはヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の5人種がいます。ギブオンはヒビ人の主要都市です。エルサレムの北西約10kmに位置しています。10章でも紹介されるように、「ギブオンが王国の都の一つのように大きな町であり、またアイよりも大きく、そこの人々がみな勇士だった(10:2)」や「私たちの長老や、私たちの国の住民はみな私たちに言いました。・・・(9:11)」とあるところから、他の都市国家とは異なった政治形態をとっていながらも、軍事面でも一目置かれた都市国家であったことが想像できます。いわゆる「専制君主制の国家」ではなく「民主主義国家」だったのです。ギブオンは、エリコやアイの様に、民衆の声を聞かず、勝手な思い込みとプライドを持った国王とその側近が、国家を間違えた方向に導くことはなかったのです。民衆が現状を正確に把握させ、正しい判断へと導いたのです。イスラエル人が何をしてきたか、そしてその背景には手で使った神々ではなく、自然をも制御される主なる神がおられることに気が付いたのです。イスラエル軍の、アイに次ぐ標的はギブオンです。人々の恐怖は最高潮だったのです。講和を結ぶことこそが命をつなぐ唯一の道だったのです。「イスラエルの軍門に下るのは恥辱である」といったつまらないプライドを持つ人々もいなかったのも幸いしています。
(2)しかし、白旗を立て、真正面から、イスラエルの陣営に向かわなかったのは何故でしょうか。ギブオン人は上述の判断の末、なりふり構わず、ギブスの人々の延命のため、奇策を講じるのです。それが、9章の偽装工作した代表者の派遣です。仮に白旗を立てながらイスラエルの陣営に向かった場合、二つの危機が想定できます。第一に「カナン人を聖絶せよ」との主なる神の命を守ろうとする原理主義者がいるはずです。第二に「征服した国家の略奪」により私腹を肥やせるという原理主義者の仮面を被ったハイエナの様な兵隊たちがいたのです。真正面から行けばたちまちギブオンは根絶されます。ですから、彼らは、「カナン人」であることをひた隠し、「しもべどもは、あなたの神、主の名のゆえにとても遠い国から参りました」と、あたかもイスラエル人の遠縁にあたる部族のふりをして近ずく必要があったのです。
💗ここに私たちは「求道心」の原則を見ることができます。イエス様が提示してくださる救いの道を受け入れるのに、「なりふり構わない」行動が必要なのです。この世のしがらみから解き放たれる必要がどうしてもあるのです。敢えて言うなら、「現状生活を気にしながら入信する」ことはありえないということです。
❷この9章のギブオンの偽造工作を「悪魔の誘惑の所業」と捉えるのは、とても違和感があります。むしろこの箇所で示されているのは「異邦人に対する神様の寛容」と思われるのです。それは以下の事柄に現れているからです。
①9章ではギブオン人の偽装工作が判明しても、彼れに危害を与えていなかったこと。
②10章では、ギブオン人の要請に従って、5つの王国の連合軍にイスラエルが立ち向かったこと。
③サムエル記・列王記にはギブオン人はイスラエルに定着し、ダビデの厚い庇護のもとに生活していたこと(サムエル記第二21章)。
④歴代誌ではダビデ勇者の一人にギデオン人が数えられていた(歴代誌第一12:4)。
⑤ネヘミヤ記では城壁再建の一翼を担っていた(ネヘミヤ3:7)。
⑥バビロン捕囚から帰還したイスラエル人の一族として数えられている(ネヘミヤ7:25)。
⑦ユダ王国のゼデキヤの治世に王宮のお抱え預言者であった(エレミヤ28:1)
💚エリコ攻略の際のラハブも異邦人です。しかし、このラハブはイエス様の系図に載せられています(マタイ1:5)。本来はイスラエルに加えられるはずのない人々です。9章のこの物語は、「主なる神様の哀れみは異邦人にも及んでいる」ことを暗示している個所とは言えないでしょうか。「枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、(ローマ11:17)」とパウロが説明したのも場合によってはこの物語を題材としているのではないでしょうか。またルカ14章に出てくる[講和を結ぶ]も譬え(14:31~32)はこのギブオン人のことを指した物とは言えないでしょうか。本当に勝手な想像になりますが。「主の指示を求めなかった(9:14)」とありますが、主なる神様もきっと同様なことを指示されたのではないかと思われるのです。さらにヨシュアの同情心は神様から来たとは言えないでしょうか。
💚「しもべどもは、はっきり知らされました。あなたの神、主がこの全土をあなたがたに与え、その地の全住民をあなたがたの前から根絶やしにするように、しもべモーセにお命じになったことを。それで私たちは、自分のいのちのことであなたがたを非常に恐れ、このようなことをしたのです。ご覧ください。今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちを扱ってください。(9:24~25)」の言葉は、ラハブの告白と酷似しています。ギブオン人は「真の救い」はどこから来るのかを悟ることができた人々です。彼らの「神様に哀れみを求める姿勢(砕かれた心)」を主なる神様が無視することなどあり得るでしょうか。