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ヨシュア記8章

ヨシュア記 8章
=本章の内容=

❶アイ攻略作戦❷ゲリジム山とエバル山

=ポイント聖句=

2,あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町の裏手に伏兵を置け。
33,全イスラエル、その長老たち、つかさたち、さばき人たちは、寄留者もこの地で生まれた者も同様に、主の契約の箱を担ぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、半分はゲリジム山の前に、もう半分はエバル山の前に立った。それは主のしもべモーセが以前命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。

=黙想の記録=

❶アイ攻略作戦
(1)1・2節で主なる神様はアイ攻略作戦を指示しています。ヨシュアはさらにその指示に具体的な戦術を加えて兵に伝達します。その作戦とは①伏兵をアイの背後にひそかに配置する。②本隊はアイに近接した位置に配置する。③アイの軍勢が城を出てきたら、本隊は反対方向に逃げ出す。④伏兵はアイの兵がいなくなったところを見計らってアイに攻め入り火をつける。⑤アイが出火するのを見たら本隊は引き返し、伏兵と本体でアイの軍勢を挟み撃ちにする。
(2)前回の失敗の結果、アイの住民は「今回も無謀な戦闘を仕掛け、また敗走する」というシナリオを描いていたのです。その失敗の結果を逆手に取ったのが今回の作戦でした。「失敗を失敗で終わらせない。失敗さへも活用される」神様のあわれみに感謝。
💗まさに「すべてのことがともに働いて益となる(ローマ8:28)」を確信させる戦闘だったわけです。
(3)アイの裏手とは、アイの西方や南方の平坦な台地ではなく、イスラエル兵の動きを察することができないように、アイを見下ろす北側の山脈と推測されます。しかし、ここに辿り着くには時間も労力も必要とされます。ここから、前回の安直な計画ではなく、慎重に計画を実行するイスラエル兵の様子が伺えます。
💗神様の事業ならば必ず遂行できます。しかし、途中で頓挫したときは、「これは御心ではなかった」と単純に諦めてしまうのではなく、失敗の原因を熟考し、神様のご計画を再確認し、慎重に計画を立て直す必要があることをこの物語は教えています。
(4)エリコと異なり今回は分捕り物が許可されています。しかし、アイの住民12000人は全員倒されました。奴隷として連れていかれることがなかったのです。エリコにしてもアイにしても奴隷にしてしまえば人的資源となろうものを、何故全員殺す必要があるのでしょう。推測するに第一に「カナンの住民をイスラエルに吸収すること」は異文化・異教を受け入れることになります。恐らく女奴隷との雑婚が始まるでしょう。第二に征服された人間たちはいつしか反旗を翻すからです。その子孫には復讐心が醸成されていくでしょう。この遺恨を残さないためにです。
💗現代の基督者に適応するのなら、神様に挑戦する私たちの肉欲を適切に処置するのを怠るなら、いつしかそれが命取り(信仰を捨てる、信仰心が薄れる)にもなるのです。1か月に一回とか年に一回、自分の心を再点検するだけでは不十分です。それは慢心の元です。日々のデボーションは日々の点検作業なのです。日本の鉄道事業の安全性が他国に抜きんでているのは日々の点検を行っているからです。
(5)アイを攻略したイスラエルは、約80km北上しシケム(シェケム)に着きます。ゲリジム山(881m)とエバル山(948m)は同じ山脈の南北に連なる山です。その間にあるのがシケムです。この場所に来たのはモーセの命令で、次の儀式を行うためでした、(申命記11:29)。
①イスラエルを二グループに分けて待機させる。
②山頂にはそれぞれ祭壇を作りいけにえを献さげる。
③レビ人の祭司が律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げる。
💚では何故シケムなのでしょう。以下の記録がその根拠です。「こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。そして、天幕を張った野の一画を、シェケムの父ハモルの息子たちの手から百ケシタ(100シェケル:約1140g…現在価格で約91200円)で買い取った。彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと呼んだ(創世記33;18~20)。つまりイスラエルの祖であるヤコブが現地の人々から買い取った元々の所有地だからです。シェケムの面積は約30平方キロメートル(東京ドーム約650個分・日本の小規模な「市」程度です)。しかも、一時的でもこのシケムがイスラエルの本拠地だったのです。イスラエルは、実に440年ぶりに約束の地に戻ったのです。しかし、ヤコブの時代と異なるのは、単なる一家族ではなく、神に選ばれた大きな民族となっていたことです。神に選ばれた民族の証拠として律法が与えられていたのです。いよいよここから、神に約束された地を次々に獲得していくのです。ヨルダン川東方の戦いもエリコやアイの戦いもここに至るためのステップに過ぎません。イスラエル人指導者はこれらの戦いから、カナンの地の獲得は「自らの実力や経験に基礎を置く」のではなく「神の言葉に従う」ことを再確認するのです。そして民全体は神の民としての資質をこの律法によって身に着けていくべきことを再確認するのです。
💗基督者に与えられたこの世での人生は、すでに高価な犠牲(イエス様の十字架)によって神様が贖い取ったものです。私たちはこの原点から人生を展開していくのです。イスラエル人同様、聖書こそが私たちの人生の指針となる重要なものです。しかし、聖書がいうところの真意を十分理解せず、イスラエルがそうであったように自分の都合に合わせた解釈し利用するのなら、それはわが身にのろい(神の祝福から漏れること)を受けるのです。

ヨシュア記

Posted by kerneltender