ヨシュア記7章

ヨシュア記 7章
=本章の内容=
❶地名に込められたメッセージ❷イスラエルの敗北❷アカンの盗み取った物❹アカンへの刑の執行
=ポイント聖句=5,アイの人々は彼らの中の三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを討った。民の心は萎え、水のようになった。
26,人々はアカンの上に石くれの大きな山を積み上げた。今日もそのままである。主は燃える怒りを収められた。それで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。
❶地名に込められたメッセージ
本章には6つの地名が出てきます。恐らく意図して書かれたものでしょう。「アイ」から「ベテル」その間に「アコルの谷」があることからそれが伺えます。またアカンが持ち逃げした「シンアルの美しい外套一着」とわざわざ地名まで入れた服にも深い意味が込められているとは思えませんか?
①ベテル:ヘブル語で「神の家」の意。旧約聖書中に66回も登場する地名。アブラハムやヤコブが祭壇を築き礼拝を行った場所で、以降「聖なる場所」として取り扱われている。
②ベテ・アベン:へブル語で「悪の家・偶像の家」の意。アブラハムが最初に天幕を張った場所。ヤロブアム一世が北のダンとともに金の子牛を据えた町。
③アイ:ヘブル語での意味は不明。後世「滅びの山」と呼ばれている。アイとベテルはその間にある山によってつながれて一続きになっていたと考えられる。ヨシュアのカナン征服の時は人口が12000人であった。(wikipedia)また地勢図を見るとエリコとアイの標高差は約1600mです。
④シェバリム:ヘブル語で「石切り場」の意。神殿建築の際の石材はここから切り出している。
⑤シンアル:バベルの塔が建設された場所つまりバベルのことです。イスラエルから直線距離で1000km以上。
⑥アコルの谷:アコルはヘブル語で「わざわいをもたらす」の意。イザヤ書ホセア書に登場する地名で、ホセアは「望みの門(テクバ・ペサッシュ)」と言い換えている。
❷イスラエルの敗北
(1)この箇所で私たちは「アカンの罪」ばかりクローズアップしていますが、アイ攻略の失敗はこんなところにもあるのです。今回のアイの攻略の手順を見てみます。最初に、エリコ同様偵察部隊を遣わしていますが、彼らはエリコの時と異なり内部潜入し、内部の人間からの有力情報を得ていません。場合によると彼らが手にした情報は「情報通」と思しき外部者からのガセネタだったかもしれません。またエリコの勝利の美酒に酔うあまり、偵察部隊の報告はアイの軍事力を過小評価してしまったと考えられます。三千人の派兵の根拠は、偵察部隊の推測です。当時の住民数から考えると、アイの軍事力は民兵を入れても2000人程度です。しかし、忘れてはならないことは、エリコが低地にあったのに対し、アイは山間部にある山城です。イスラエル兵は勾配のきついしかも標高差のあるところを駆け上っていかねばなりません。戦術的に下から上を攻めるのはかなり不利です。水攻めも兵糧攻めも困難です。夜陰に乗じた奇襲や火攻めが考えられますが、これも山城の場合は見下ろす位置にあるので、イスラエル兵の動きは即ばれてしまいます。つまりエリコよりはるかに困難な戦闘になるのは分かり切ったことです。数を誇る人海戦術では相当な犠牲を強いられることになるのは分かり切ったとことなのです。指導者の慢心の要因は、ヨルダン川東の2つの都市国家と難攻不落と言われていたエリコをいとも簡単に攻略できたという「勝利の美酒に酔っている」だけではなく、「主なる神様から超能力を授かったかのような錯覚」に陥ったことです。
💗これは現代の基督者にもよく現れる、「自分の経験や賜物と思い込んでいる才能」に溺れている状態に酷似しています。
(2)結局この戦闘でイスラエルは初めて負け戦を経験します。シェバリムまでつまりイスラエルの本営の直前まで敗走してくるのです。歴史上の戦争をみると総力戦でどちらかが力尽きるまで、つまりどちらか一方が全滅するまで戦うのが常です。ですから36人くらいの犠牲はしかたのないものです。しかし、イスラエル人は「心が萎え、水のようになった」とあるほど落胆するのです。ここからイスラエル軍はこのアイ人との戦闘を本当に甘く見ていたと考えられるのです。慢心は落胆と隣り合わせにあるものです。
※根拠ははっきりしていませんが、この「36」という数字はヘブル語のゲマトリアで「幕屋」を指し示すものだそうです。つまり「神の臨在」のある場所です。このアイの兵による犠牲者数は、悲しいかな「神の臨在を否定された」数値とは言えないでしょうか。
(注意)ゲマトリアはあくまでも通説です。このゲマトリアから未来を占うのはいかがなものでしょうか。
(3)ヨシュアの祈りは見当違いも甚だしいものです。要約すると「①主なる神様のご計画を求めようとしない。②ヨルダン川を渡らなければこんな犠牲は出なかった。③カナン人がイスラエルをせん滅しようとする。」との「つぶやき・ぼやき」です。エリコ攻略時のあのいきり立っていたヨシュアとはまるで別人の様です。「地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった」と言う行為は、不当な扱いを受けたとの意思表明で「反省した・悔い改めた」という意味ではありません。このつぶやき・ぼやきに対しても主なる神様はヨシュアを叱責するのではなく、この原因が全く別次元のもの、つまり「聖絶に関する規定違反」であることを示されるのです。「だから、イスラエルの子らは敵の前に立つことができず、敵の前に背を見せた」とありますが、単にアカンの罪の言及をしているだけではなく、ヨシュアを含めイスラエル人全体が、「神の力を帯びていない現状」にあまりにも無頓着であったことを指し示すものです。
💗これは現代の基督者にもよく現れる「見切り発車」と酷似しています。神様のご計画求めることもせず、神様の力を帯びることなく、一時の自分の感情に任せて事を行い、それが失敗するや否や、「その原因は神様にある」と責任転嫁するのに似ています。
❸アカンの盗み取った物
あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。また自分のものとしてはならない。あなたが罠に陥らないようにするためである。それは、あなたの神、主が忌み嫌われるものである。忌み嫌うべきものをあなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶されたものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌み嫌わなければならない。それは聖絶の物だからである。申命記7:25~26
(1)以下の内容は私個人の推測です。「アカンが、聖絶の物の一部を取った」行為は上記の命令に抵触します。彼が分捕った物をみると、まず「シンアルの美しい外套一着」とありますが、「美しい外套」は目に鮮やかなという意味だけではなく、「シンアル(バビロン)の」とあるところから、この服は催事の際の特別な洋服を意味します。銀二百シェケルと、重さ五十シェケルの金の延べ棒一本は元々エリコの住民が信奉する神々への献上物で、この金属から彼らの神々を鋳造することになります。個人の持ち物ではありません。アカンは単に物を盗み取っただけではなく「聖絶の物」つまり「偶像礼拝」を容認していることになるのです。聖絶の意味するところは、「聖絶する物や者」によって異教の風習をイスラエルに持ち込ませないところにあります。
❹アカンへの刑の執行
(1)犯人捜しをするにあたり、なぜくじを使って絞り込むようなことをさせたのでしょうか。始めから「アカン」と名指しすればそれで事足りたはずです。「民を聖別せよ。」と命令を受けた時、ヨシュアは震え上がったことでしょう。シナイ山で民が金の子牛を作り踊り戯れていたことがあります。その時、本来は主なる神様ご自身が下そうとされていた裁きを思い留まらせ、モーセ自らが代行して、偶像礼拝に参加していた者たち3000人をレビ族の剣によって容赦なく殺害させたことがあります。ヨシュアはその一部始終を見ています。今回の場合も一氏族レベル全員がこれに関与していた場合、厳粛な裁きを受ける人数は数千人単位ともなりえるのです。しかし、実際はこんな愚行を犯したのはアカン一個人だけだったのです。主なる神様は間髪を入れず、くじによって裁きの対象を絞り込むよう命じられました。部族>氏族>一族>家族(兄弟)>本人という順に絞られていくことは、第一に、この「偶像礼拝の許容」がどこまで波及していたか、第二に個人レベルの問題がイスラエル部族にまで影響を及ばせること、民に自覚させるため、第三に家族間・氏族間・部族間の骨肉の争いを引き起こさせない為、そして最後第四にアカンに自首を迫る猶予を与える為とは言えないでしょうか。すでにアカン一人の罪の為に36人もの犠牲者が出ているのです。理不尽な戦死者が出てしまった身内の者たちが、アカンの他の家族や氏族に復讐をするとも考えられるのです。ここに神様の微細に至るまでの配慮を感じ取ることができるのです。またこの絞り込みを行うことで、それぞれの部族・氏族・家族の長に「偶像礼拝に対する警戒」を強化することにもなるのです。しかし、家族・氏族・部族に迷惑をかけることを知りながらアカンは最後まで自首してこないのです。アカンの罪は何重もの悪影響を持たらす元凶だったのです。
(2)アカンを処刑する方法は剣による惨殺ではなく、ヨシュアはここで「石打刑」を命じ、さらには記念塔の様にうずたかく石を積み上げさせています。惨殺は一人の執行人で済みます。また一瞬の刑です。しかし石打ち刑でしかも石がうずたかく積まれるということから考えると、多くの人々が刑の執行に関わっていることになります。このアカンの罪がアカン個人の違反行為で終わらず、民全体への教訓とするための方法と思われます。子々孫々に伝える教訓とする為の記念碑とも言えます。