ヨシュア記6章

ヨシュア記 6章
=本章の内容=
❶エリコ攻略の戦術❷エリコ陥落の意味するところ
=ポイント聖句=1,エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。
10,ヨシュアは民に命じた。「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」
❶エリコ攻略の戦術
(1)「城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。(6:11)」は、第一に外部から侵入できないということ、第二に内部から逃亡させないことを意味しています。ラハブの様にエリコ陥落は必然であると感じていた住民もいたはずです。為政者は住民の安全のために、降伏を申し入れ、イスラエルとの和睦を図るべきでした。しかし、この聖句から感じられることは、「難攻不落の城壁」と「百戦錬磨の兵士」との思い込みが王に間違えた判断を下させてしまったことです。「イスラエルは人数こそ多いいが、単なる遊牧民、武器も粗末、軍事訓練もお粗末である。」と過小評価していたと思われます。「7日間も城の周囲を回るだけで手出しして来ないのは、その証拠。」と慢心したかもしれません。
(2)エジプトやその他の王国の様に、当時のイスラエル人には戦車も騎兵も、さらには投石機などの破壊兵器も所有していません。そもそも戦車や騎兵は奇襲攻撃や野外戦でしか使い道がありません。青銅と鉄の加工技術は持っていても、大量の武器を作るための鉱物資源をどこで手に入れることができるのでしょう。6章に出てくるイスラエル兵士は、木製の盾に数少ない剣、あるいは石または鉄の矛先をつけた槍、あるいは弓矢くらいのはずなのです。ですから、兵器には頼れず、人海戦術の肉弾戦で戦闘をする以外に方法がないのです。ですからいったん戦闘が始まれば、イスラエル軍にはおびただしい数の負傷者が出ることは目に見えています。ここで戦死者が出たとしても、これは神様の望んでいる献身とは異なります。
(3)主なる神様が命じた「エリコ攻略の戦術」は、とても理解に苦しむものです。武装した兵士が、「角笛を吹く七人の祭司」と「契約の箱を担ぐ祭司」の前に進みます。「角笛を吹く祭司たち」は今流にいえば「軍楽隊」のことでしょうか。軍楽隊は戦闘状態にある兵士を鼓舞したり、敵を威嚇する役割があります。古代イスラエルの角笛は「ショファル」と呼ばれ、牡羊,牡ヤギの角で作られていました。具体的な数値は分かりませんが、かなり遠距離まで届いたようです。角笛は荒野での訓練期間中では、民を集合させる合図として使われていました。兵士の歩く速さをゆっくり目の分速60m程度とすると、たった13分、多くても20分足らずでエリコを一周してしまうのです。これでは角笛を吹くのも行進するのも、敵を威嚇することになりません。味方の鼓舞にもならないばかりか、「こんなことをして何になる」とい疑心暗鬼をイスラエル兵の間に沸き立たせることになるのです。さらに言うなら、角笛を吹く祭司たちも契約の箱を担ぐ祭司たちも共に全く無防備です。この一段めがけて弓矢を居かけられれば一溜りもありません。とても重要な契約の箱をなぜこんな危険な場所に晒すようなことをするのでしょうか
(4) 「ヨシュアは民に命じた。「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。(6:10)」とあります。城壁の周りを行進する間、兵士はただ押し黙っていなければならないのです。角笛以外の音がしない「沈黙」の状態です。兵士たちにとってこの状態は反って不安を募らせはしないでしょうか。「7日間も沈黙したままただただぐるぐる回る」などという戦術は、戦略家からすれば大変馬鹿げた「無謀無意味」な戦術です。「主なる神様は何もできない」という不信仰を沸き立たせたり、ヨシュアの指導力を疑わせる要因にならないでしょうか。
❷エリコ陥落の意味するところ
(1)エリコの城壁は、世界最古の城壁と言われ、壁と塔で構築されていました。城壁は、前8350年~前7370年頃の地層から、広さ約4ヘクタール、高さ4m、幅2mの石壁で囲まれた街「テル・エッ・スルタン」として発掘されています。塔は、高さ8.5メートル(3階建て)、直径9メートルです。(天国への階段から引用)。城壁跡を見ると、いずれも自然石で加工の後がなく、人が抱えて運べるほどのものを無造作に積んだように見えます。日本の城壁に積まれた中小の石程度です。大石はありません。塔の中にラハブの居住スペースまた妓楼があったと考えられます。4ヘクタールは200m×200mです。東京ドームは約4.7 ヘクタール、甲子園は3.85 ヘクタールです。東京ドームの収容人員は55000人、甲子園は47000人。城内には居住スペースが必要な訳ですから、住民は一万人もいなかったと推測できます。また、エリコの戦闘員数は多く見積もっても二千人程度。
(2)仮にイスラエル軍の兵士が1m間隔に並んで行進しても200m×4辺÷1m=800人前後で一周してしまうのです。さらに、陥落時の城壁は、当時のエリコ住民の作ではなく、祖先からの遺物です。難攻不落の城ではなく単純に崩壊させることも可能だったのです。こんな小規模な都市国家、イスラエル軍なら一ひねりです。一瞬で戦闘は終了してしまうはずです。また、周囲を囲んで兵糧攻めにすれば、何もしなくても自滅してしまうのです。つまり、エリコを陥落させるのに左程の軍事力は必要としません。ですから神様の力抜きでも簡単に攻略できる筈です。しかし、イスラエル軍が選んだのは、人間の知略に頼る方法ではなく、主なる神様の指示通りを実行する行動だったのです。
(3) 以上を基督者に適応すればエリコのこの物語は以下のことを教えていないでしょうか。消極的な意味では、第一に、人間の能力値・体験値は、時に神様のご計画を曇らせる要因になること、第二に、神様の計画に疑念を抱くことはかえって計画をとん挫させることです。逆に積極的な意味で言うなら、第一に、己の能力や体験に頼るのではなく、「神様の指示を仰ぐ」こと、第二に、神様の計画が実行されるまで「待機」し、その期間を「信仰をより研ぎ澄ます」時間として費やすことです。具体的には、待機期間は問題解決のために動き回りことをやめ、自分に対しても他者に対してもぼやいたりつぶやいたりするのをやめ、み言葉を黙想することで何が御心なのかを探りだし、また祈りによって様々な疑念を払しょくし平安に辿り着くことではないでしょうか。この時、私の周囲の人々は私たちの人生の歩みに神様が共におられることを認めるのではないでしょうか。これが神様にある正しい戦い方とは言えないでしょうか。