ヨシュア記5章
ヨシュア記 5章
=本章の内容=
❶割礼を施す❷ギルガルでの宿営❸主の軍の将の出現
=ポイント聖句=12-13,そのとき、主はヨシュアに告げられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。」(5:2)
マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」(5:13)
❶割礼とは何か。なぜイスラエル人には必要なのか。
(1)割礼とは男性精器に施す儀礼の事です。男性性器の先端を亀頭(きとう)と言い、その部分を覆っているのが包皮(ほうひ)です。この包皮が亀頭を覆っていることを包茎(ほうけい)と呼び、幼児期はほぼ包茎です。自然にこの包皮が剝ける場合もあります。日本人成人男性の約7割がこの状態です。包茎は状態で病気と言うわけではありません。また包茎=不妊ということではありません。ただ、成人したときに、炎症を起こしたり、場合によっては、尿路閉塞性症、陰茎ガンを引き起こす場合がありますが、全員と言うわけではありません。宗教上の理由がない限り包茎手術は不必要です。
(2)ユダヤ教・イスラム教では乳児期(生まれて八日目)にこの割礼を施されます。では、何故割礼が聖なる儀式と言えるのでしょうか。創世記17章9~14節で神がアブラハムとその子孫に与えられた命令と記されています。アブラハムとその子孫が神の民となるための契約の印だからなのです。体に傷をつけ「血を流す」ことにより「契約を履行するという意思表明」となるのです。しかし、体に傷をつけるだけなら、男性性器ではなく、「額や、手の甲にでも刺青を入れる」ので良いのではないでしょうか。そうすれば、外見から見てすぐにアブラハムの子孫であることが判明するのではないでしょうか。ところが、普段人間の目に触れない箇所に傷をつけるところに意義があるのです。裸にならない限り割礼を施されているかどうかは見ることはできません。それを見るのは、人ではなく神だからです。神の前では人は裸同然だからです。
(3)イスラエルの第二世代は割礼を受けていません。アブラハム契約を履行する印として改めてこの儀式を行う必要性があったのです。
❷ギルガルでの宿営は何故必要だったのか。
(1)第一に割礼後の養生の為です。傷が癒えるまで約2週間は必要です。その間男性は激しい身動きができません。こんな状態ならば敵が攻めてくればたちまち打ち負かされてしまうでしょう。ですから割礼は隠密裏に行う必要があります。さらに。神様の保護下にいることを信じなければ割礼はできません。神との約束ですから、人間側だけではなく神の側にも責任があるという彼らの信仰があればこそ行える儀式なのです。
(2)ギルガルで宿営をしている最中に過ぎ越しを行います。紅海を渡った直後に一度行われたきりで40年間も行われていませんでした。ヨルダン川を渡るまで、マナはずっと降り注いでいたことになります。過ぎ越しの祭りには上質の小麦が必要です。マナではありません。つまりこの時点でイスラエル人はその地の産物である小麦を得ることができたのです。エジプトでの過ぎ越しは奴隷状態からの解放を意味しましたが、このギルガルでの過ぎ越しは契約の地で神の民として生活するという「献身の証」と言えるのです。
❸主の軍の将の出現はなぜ必要だったのか
(1)「抜き身の剣」をもった人物を「伏し拝んだ」とあり、また「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」と命じたことから、この人物はみ使いではなく、モーセが出会った主なる神その方であったことが分かるのです。
(2)ヨシュアの「敵か味方か」の質問に「味方」とは答えず、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えています。この答えは、カナンでの戦は「イスラエル人を脅かす敵の駆逐」ではなく、「主なる神の代行として行う聖戦」であることを指し示す言葉です。モーセの時には「燃え尽きない柴」が「神の栄光」に触れる機会でしたが、その御声も聞くことはあっても、その姿は見えていません。ところがヨシュアには「人の形」さらに「将軍」と見えていたのです。ヨシュアがより具体的な姿を凝視できたことから、ヨシュアはこの戦いを勝利で終わらせると確信できたのです。
(3)この出来事は、基督者の勝利の生活に際し、「人の子」となられた「イエスキリストの姿を凝視する」ことが「基督者の勝利の生活の原動力」となることを教え諭していることになるのです。ヨシュアには「主の軍の将」である方は見えても「主の軍勢」は見えていません。でもそれで十分なのです。つまり,基督者の人生もまた全様が見えていなくても良いのです。