ヨシュア記4章

ヨシュア記 4章
=本章の内容=
❶持ち帰った石❷認められたヨシュア❸石柱を立てる意義
=ポイント聖句=23-24:あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。
=黙想の記録=【素朴な疑問1】担いだ石はどんなものだろう?・・・労働省の通達によれば「満18歳以上の男子労働者が人力のみにより取り扱う重量は、55kg以下にすること。また、当該男子労働者が、常時、人力のみにより取り扱う場合の重量は、当該労働者の体重のおおむね40%以下となるように努めること。」とあり体重75kgの男性なら40%は30kgになります。30kgの石の体積は約18ℓの灯油容器くらいの大きさです。イスラエル人がヨルダン川を渡河した場所は「ベタバラ(アル・マグタス)」で死海北9km地点とされています。そこからギルガルまでは約5kmです。30kgの石を肩に担いで5km運ぶのは容易なことではありません。選ばれた人物が川から運び出したのですがギルガルまでどう運んだかは記載されていません。
【素朴な疑問2】ヨルダン川の渡河(とか)した場所にこんな大きな石があったのだろうか?・・・中学理科で習うように、川は「浸食・運搬・堆積」を繰り返しています。しかしこの場合、岩山のヘルモン山からすでに400km近くも離れているわけですから、大石は見つかるはずがありません。日本の場合すでにこの下流流域に差し掛かっているのなら、小石くらいしか見つけることができないのです。しかも川岸ならまだしも、川の中央部に、担いで持ち出すような石が残っている筈がないのです。ところがヨルダン川は春季に氾濫が何度も起きる河川です。恐らくイスラエルが渡河以前に大規模な氾濫が起こり、ヘルモン山から岩石を転がしてきたと思われるのです。
❶1-13節:持ち帰った石・・・ヨシュア記3:15にあるように刈り入れの期間(3・4月)とあることから、ヨルダン川は雪解け水で増水していたのです。イスラエル人は、かなりの勢いの水流を目の当たりにしており、川が干上がらない限りヨルダン川渡河は不可能であることを承知していたのです。以下は私の推測ですが、一世代前のモーセの時代に紅海を渡るという奇跡が行われましたが、カナン侵攻世代のイスラエル人はそれを目撃したことはなく、伝承から単なる神話になりかけていたのです。モーセはその活躍の痕跡を全く残していません。その為に民に神話扱いされてしまうとヨシュアは考えたのです。だから何らかの痕跡を残すことが後の世代への実物教育となると考えたのです。それがギルガルに石の柱を積むという行為になった訳です。
※ところでこの「石の柱を築く」行為は主の前に正しい行為と言えるでしょうか。レビ記26:1によれば石の柱を立てることは律法で禁じています。以降この石の柱で礼拝を捧げた記録はありませんが、次第にギルガルは偶像礼拝の場所となっていくのです。ギルガルはエリコから5kmほど東に位置しています。エリコ陥落以降ヨシュアはギルガルを軍事拠点としています。カナンの分割が行われた後は自分の部族の割り当て地にあるシロに根拠地を移しています。ヨシュア人は自分のこの命令を「7,・・・『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』」と断言しています。ですが私の個人的考えですが、自分の業績を形で残したいという思いがあったとは言えないでしょうか。残念ながらこの記念碑を建てたところで士師記で見られるように子孫たちはすぐに神様の偉大な業を忘れているではありませんか?子弟教育になっていないのです。
❷14-18節:認められたヨシュア・・・「14,その日、主は全イスラエルの目の前で、ヨシュアを大いなる者とされた。それで彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間、恐れた。」とある様に、このヨルダン川の渡河が成功したことでヨシュアはモーセに匹敵する指導者して民から信頼されるようになったとあります。つまり、ヨルダン川渡河の奇跡は神が起こされていることを認めさせる為でありヨシュアを新たな指導者として認めさせることにその目的があったのです。祭司たちのとった行動を考えてみましょう。ヨルダン川に足を踏み入れ川の真ん中まで進みそこで主の契約の箱をもって民全員が渡河するまでただただじっと数時間も立ち尽くしているのです。当たり前ですが「担ぐのに疲れたとか飽きてしまった」と言って投げ出すわけにはいかないのです。川の中央は3mほどの深さがあります。濁流が元通りになれば必ず一番最初に水死してしまうのは祭司たちです。命がけの任務です。神様の与える使命とはこの祭司たちの様に同じ場所でひたすら担ぎ続けることができる人物にしか任すことができないのです。誰かに見せるための断続的なパフォーマンスではない場合が多いのです。
➌19-24節:石柱を立てる意義・・・ヨシュアの命によりギルガルで12この石を積み上げて石柱を立てました。「23-24節:あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。」と民に向かって石柱を立てた意義を説明しました。ここでもヨシュアはヨルダン川渡河がモーセの紅海(葦の海)渡河に匹敵するものであることを畳み込んでいるようです。穿った見方をすると「自分こそモーセの後継者」と言い張っているように思えてくるのです。神様が認めていれば他者を気にする必要などないのです。ここら辺はヨシュアの弱点でしょうか。