川は一瞬にして乾いてはいなかった?!

なるほどTheBible2023/10/16
=川は一瞬にして乾いてはいなかった?!=
[参照箇所] ヨシュア記3章15・16節
ヨシュア記3章に出てくるヨルダン川の渡河の件ですが、川は一瞬にして渇いたと教えられてきましたが実際はどうなのでしょうか?
●結論から言えば、NOです。恐らく川底がすべて見えるためには4時間以上かかったと思われるのです。
※まずは15節の表現を2つの日本語訳・2つの英語訳・ヘブル語で見てみましょう。
「箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると(新改訳2017版)」
「箱をかつぐ祭司たちが足を入れた時(リビングバイブル)」
he feet of the priests that bare the ark were dipped in the brim of the water,(KJV)
as soon as the feet of the priests ・・・touched the water at the river’s edge,(NLT)
KJVでは「足がへりに浸ると」、NLTでは「足が減りに触れるとすぐに」とあり、ともに変化がすぐに現れたことを想像させるが、一瞬にして渇いたというわけではありません。ヘブル語は「足が浸る」との表現はありますが「~するとすぐに」の表現ではありません。つまり、祭司たちがヨルダン川へ足を踏み入れた途端に堰が出来た言われていますが、上の聖句の表現からでは水流がたちまち一瞬にして止まったとは汲み取れません。
※次に16節の表現を見てみましょう。
「川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、 (新改訳2017版)」
「突然、はるか川上のツァレタン付近の町アダムで水はせき止められ、盛り上がり始めたのです。(リビングバイブル)」
That the waters which came down from above stood and rose up upon an heap very far from the city Adam, that is beside Zaretan,(KJV)
the water above that point began backing up a great distance away at a town called Adam, which is near Zarethan. ,(NLT)
KJVもNLTもアダムという箇所で水が堰き止められたとの表現です。ヘブル語も止まって・立ち上がるとの表現です。
※そこで今度は物理的に観察してみましょう。堰が出来てしまったアダムは対岸のエリコから約35km上流にあります。またエリコから死海の距離は10km仮に川は上流から徐々に枯れてきたと考えると。この季節、「どこの川岸にも水があふれていた」との表現から、大量の水流があったと考えられます。そこでこの時の川の速さを3m/秒(日本の河川でやや増水したときの川の速さで計算した場合)と推定すると、死海までヨルダン川に水がなくなるのは、約250分後。つまり堰き止められてから4時間後になってしまうのです。ですが推測ですが流れが緩やかになれば完璧に干上がらなくても渡ることが可能です。「エリコに面したところを渡った」と表記されているので、ヨルダン川の川幅を40m程度とし渡河した時の横幅を500m程度とすると一度に500人程度が渡れます。前の兵士との間を1.5m程度とすると60万人の兵士は後ろに1800m並ぶことになります。そこで計算してみると60万人の兵士が渡りきるまでに(1800m+40m)÷秒速0.4m=4600秒かかります。つまり全員が渡りきるには、77分あればよいことになります。250分の猶予があれば楽勝でしょう。
🔵また250分の川が堰き止められる自然現象は存在します。河道閉塞(かどうへいそく)という現象です。日本では地震や大雨による土砂崩れで引き起こされるケースが多々あります(、2004 年新潟県中越地震,2008 年岩手・宮城内陸地震,2011年台風第12号による紀伊半島,2017年九州北部豪雨による大分県日田市,2018 年北海道胆振東部地震による厚真川の河道閉塞が起きています)が、イスラエルでは100年に一度のM6.5クラスの大きな地震の他小規模な地震が起きる地域ですからこれ当りが原因ではなかったでしょうか。仮に35km上流で小規模な地震が発生し地滑りで堰き止められたとしましょう。やはり上流にできた堰は貯められた水量により250分程度で決壊してまうはずです。
🔴上記のような私的な考察を長々と記すのはこんな思いがあるからです。聖書の「奇跡」は私達の知っている物理法則または自然科学を全く無視して起こるとは思いません。むしろ神様はご自身がお決めになった法則に則り奇跡を起こす方であると思うのです。私達基督者が陥る過ちがあります。それは自分の都合に合わせて神様の奇跡を引き起こそうとすることです。もちろん些細なことでも神様の配慮はありえます。しかし問題解決に私達の努力や忍耐は必要ないのでしょうか。いや寧ろ人間性が成長するために信仰が養われるために神様は敢えて奇跡を起こさないこともあるのです。なんでもかんでも願い事をすれば叶う(奇跡が起こる)と思い込むのではご利益宗教と同じレベルなのです。