ヨシュア記3章
ヨシュア記 3章
=本章の内容=
❶ヨルダン川を渡る順番❷堰き止められたヨルダン川
=ポイント聖句=3~4,民に命じた。「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」
=黙想の記録=①何故ヨルダン川を東から西へと渡ったのか
ヨルダン川はヘルモン山を水源とし、南下し死海に至る全長425kmの河川です。ところで、わざわざ遠回りをしてヨルダン川を渡らなければならない理由はどこにあるのでしょうか。
出エジプトの経路を考えるとその答えが見えてきます。
1)仮に地中海に面した経路を辿った場合、ラメセスからカナンまでは直線距離で約300km。女子供がいるので休み休み行ったとして日平均15kmとしてもわずか20日の距離。
2)でも実際はシナイ半島をぐるりと東回りで行ったわけです。ラメセスからエリコまで約1200km。計算上80日程度で到達できる距離です。ところが、実際は一世代40年もかかり、出エジプトを経験した世代はヨシュア等を除いて皆無なのです。
何故1)ではなく2)のコースを辿らせられたのでしょうか。まず1)のコースで直行した場合、前には海の民ペリシテ人が立ちはだかり、後ろからはエジプト軍がなんの支障もなくイスラエルを攻めることができるのです。ですから、カナンに到着するまでにイスラエル人は壊滅状態となります。ここで素朴な疑問。天の軍勢に命じて居並ぶ敵を蹴散らかせば、イスラエル人にはなんの被害もなく、全員無事に目的地に到着するではありませんか。こんな奇跡があった方がイスラエル人は神様をもっと恐れるのではないでしょうか。でも、実際はどうでしょう。紅海を渡りきると言うあれだけの大きな軌跡を見せつけられても民は神様を恐れるどころか、苦境に立たされると直ぐにへこたれて、不平不満を神様にも指導者にもぶちまけていたではありませんか。人は、何でもかんでも上手く進んでしまうと、神様の奇跡は奇跡ではなく当然だと思い込み始めてしまうのです。恵みを恵みと思わなくなるのです。つまり従順の民ではなく、神様を下僕の様に扱う放縦の民なってしまうのです。民全体が調和し信仰においても国家としても強くならなければ、カナンに進むことは不可能なのです。強くなることが必要なのです。その為の遠回りであったのです。
救いを経験し、神の民となったとしても、それで完了するわけではありません。試練訓練を経て初めて神の民として相応しい者となるのです。
②「主の契約の箱」から「民の先頭」の間に2000キュビト(880m)ほどの距離をおいたのは何故か。
これはカナン征服が人知を超えたものであり、神様の介入や配慮が随所にあることを諭すための実物教材です。契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川に足を踏み入れた途端に川が堰き止められました。イスラエル人が総出で堰を建設したわけではないのです。紅海を割った時と異なるのは、堰き止められる奇跡が「ヨシュアの言動」によるのではなく、神に命じられた方法つまり「神の箱の移動」によることです。この時点で、イスラエルはモーセに頼ることを止めて「神の臨在」を重要視していたことが分かるのです。粗暴にして欲望の塊のようなイスラエル人に「神への従順」が教育されたのを垣間見ることができるようになったのです。
③川は一瞬にして乾いたのか
●結論から言えば、NOです。恐らく川底がすべて見えるためには4時間以上かかったと思われるのです。
※まずは15節の表現を2つの日本語訳・2つの英語訳・ヘブル語で見てみましょう。
「箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると(新改訳2017版)」
「箱をかつぐ祭司たちが足を入れた時(リビングバイブル)」
he feet of the priests that bare the ark were dipped in the brim of the water,(KJV)
as soon as the feet of the priests ・・・touched the water at the river’s edge,(NLT)
KJVでは「足がへりに浸ると」、NLTでは「足がへりに触れるとすぐに」とあり、ともに変化がすぐに現れたことを想像させるが、一瞬にして渇いたというわけではありません。ヘブル語は「足が浸る」との表現はありますが「~するとすぐに」の表現ではありません。つまり、祭司たちがヨルダン川へ足を踏み入れた途端に堰が出来た言われていますが、上の聖句の表現からでは水流がたちまち一瞬にして止まったとは汲み取れません。
※次に16節の表現を見てみましょう。
「川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、 (新改訳2017版)」
「突然、はるか川上のツァレタン付近の町アダムで水はせき止められ、盛り上がり始めたのです。(リビングバイブル)」
That the waters which came down from above stood and rose up upon an heap very far from the city Adam, that is beside Zaretan,(KJV)
the water above that point began backing up a great distance away at a town called Adam, which is near Zarethan. ,(NLT)
KJVもNLTもアダムという箇所で水が堰き止められたとの表現です。ヘブル語も止まって・立ち上がるとの表現です。
※そこで今度は物理的に観察してみましょう。堰が出来てしまったアダムは対岸のエリコから約35km上流にあります。またエリコから死海の距離は10km。仮に川は上流から徐々に枯れてきたと考えると。この季節、「どこの川岸にも水があふれていた」との表現から、大量の水流があったと考えられます。そこでこの時の川の速さを3m/秒(日本の河川でやや増水したときの川の速さで計算した場合)と推定すると、死海までヨルダン川に水がなくなるのは、45ooom÷3m/秒÷60秒=約250分後。つまり堰き止められてから4時間後になってしまうのです。ですが推測ですが流れが緩やかになれば完璧に干上がらなくても渡ることが可能です。「エリコに面したところを渡った」と表記されているので、ヨルダン川の川幅を40m程度とし渡河した時の兵士の横一行を500m程度とすると一度に500人程度が渡れることになります。前行の兵士との間を1.5m程度とすると60万人の兵士は後ろに1800m並ぶことになります。そこで計算してみると60万人の兵士が渡りきるまでに(1800m+40m)÷秒速0.4m=4600秒かかります。つまり全員が渡りきるには、77分あればよいことになります。250分の猶予があれば楽勝でしょう。
また250分の川が堰き止められる自然現象は存在します。河道閉塞(かどうへいそく)という現象です。日本では地震や大雨による土砂崩れで引き起こされるケースが多々あります(、2004 年新潟県中越地震,2008 年岩手・宮城内陸地震,2011年台風第12号による紀伊半島,2017年九州北部豪雨による大分県日田市,2018 年北海道胆振東部地震による厚真川の河道閉塞が起きています)が、イスラエルでは100年に一度のM6.5クラスの大きな地震の他小規模な地震が起きる地域ですからこれ当りが原因ではなかったでしょうか。仮に35km上流で小規模な地震が発生し地滑りで堰き止められたとしましょう。やはり上流にできた堰は貯められた水量により250分程度で決壊してまうはずです。
上記のような私的な考察を長々と記すのはこんな思いがあるからです。聖書の「奇跡」は私達の知っている物理法則または自然科学を全く無視して起こるとは思いません。むしろ神様はご自身がお決めになった法則に則り奇跡を起こす方であると思うのです。私達基督者が陥る過ちがあります。それは神様の御都合を考えず自分の都合に合わせて神様の奇跡を引き起こそうとすることです。もちろん些細なことでも神様の配慮はありえます。しかし問題解決に私達の努力や忍耐は必要ないのでしょうか。いや寧ろ人間性が成長するために信仰が養われるために神様は敢えて奇跡を起こさないこともあるのです。なんでもかんでも願い事をすれば叶う(奇跡が起こる)と思い込むのではご利益宗教と同じレベルなのです。