ヨシュア記1章
ヨシュア記1章
=本章の内容=
➊モーセの死と後継者ヨシュア❷約束の地❸民のつかさたちへの命令
=ポイント聖句=強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。(1:6)
=黙想の記録=主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。(1:1)の表現は「モーセの世代」が終わり「ヨシュアの世代」となることを表現したものですが、同時に「圧制からの救い」の過程から「約束の地の獲得」の過程にステップアップしたことを表現しています。
①「強くあれ」はヘブル語で「ḥāzaq(ハザーク)」で「強化する・勝つ・固める・大胆にする」などの意味があります。「雄々しくあれ」はヘブル語で「’āmēṣ(アメイツ)」で「勇敢である・頑丈である・堅実である・注意深くある」の意味があります。いずれも、時間の経過が必要とされるもので一瞬にこれらが体得できません。基督者にとって、出エジプト記が「罪からの救い」の書とすれば、ヨシュア記は「基督者の勝利の生活」の指針を教えるものと言えます。
🔴何故、荒野の旅をしなければならなかったのでしょうか。
彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。出エジプト7:7
主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。申命記34:6~7
🔷この二つの聖句からイスラエルはエジプトからカナンまで40年間の長い旅路を辿ったことが分かります。この間贅沢を求めない限り、衣食住は全て備えられていました。しかも彼らを虐げる民族は何処にも現れてはいないのです。エジプトでの400年に渡る奴隷状態はそこにはもう無いのです。
🔷誰からも束縛されない自由がありましたが、不道徳、かつ自由奔放、放縦な生活が許されるはずがありません。こうした人々が多くなれば、毎日犯罪が絶えず、またエジプト同様格差社会となり、誰かが誰かを隷属させる様になってしまうでしょう。それだけではなく、神の民として他民族に影響を与える民には成り得なくなるのです。イスラエル人にイスラエル人としてのアイデンティティが育つまで彼らは教育されなければならないのです。こうした意味で40年は決して長い年数とは思えません。何故ならエジプトから出てきた民は、欲望むき出しの人間ばかりだったのです。信仰など露ほどにも持っていなかったのですから。
❤キリスト者にもこの訓練期間は必須です。神の民としての品性を持ち合わせることが幸福への必須条件です。「伝道者、牧師、教師」と言う「職人」がキリスト者の到達点であるなら、これを志す人々だけ、この様な品性が有れば良いのです。しかし、神様は全ての人が神の品性つまり聖霊の実を結実させることを望んでおられるのです。良い実をならせるためにはどうしても必要なのが余分な枝の刈り込みなのです。
❤救いに関して「人間の努力」は一切不要です。しかし、聖霊の実を結実させるために、また、神様のご計画を遂行する為の努力を厭うことは結果的に遠回りな人生となってしまうのです。
あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。(1:7)はとても印象深い聖句です。「荒野」で始まり「日の入る方の大海」と書かれていますが、これは基督者の一生を表現したものと思われます。基督者としての人生は、まるで荒野のように殺伐としたものですが、全てを満たす神様の配慮があり、また神の民としてふさわしい訓練を終了し、大海つまり永遠の命に到達するのです。
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