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ヨハネの福音書21章

ヨハネの福音書21章
=本章の内容=

➊テべリヤ湖畔での再会➋ペテロへの質問

=ポイント聖句=

こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。(21:9)

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。(21:17)

=黙想の記録=

●20章でヨハネは本福音書を完結した様に思われました。この21章は、追記の様な感じさへしますが、これがヨハネの狙いです。このペテロの独壇場の様な章が実は、「教会の幕開け」へとつながっているのです。

●本章の舞台となるティベリアは、ガリラヤ湖の北西岸に位置するイスラエルの都市です。ヘロデ・アンティパスにより建設され、ガリラヤ地方の首都となったところです。アンティパスの後見人であったローマ皇帝、ティベリウスに因んでティベリアと名付けられました。ここはペテロ達の故郷です。エルサレムで復活の主に出会ってから時間がだいぶ経過していたと思われます。「ガリラヤに行きなさい」とのイエス様の命令を受けて地元に戻り待機していたのです。本来なら、エルサレムに残した多くの弟子たちをこちらの呼び寄せ、教会としての信徒教育でも始めればよかったのに、待機時間が長くなるにつれ、先の見えなかった弟子たちは、不安がいよいよ募ってくるのです。「私は漁に行く。」と声を張り上げたペテロ。この言葉にもペテロの気短な性格が良く現わされています。イエス様の命令でガリラヤに来ているのです。イエス様が命令を下されるまで待つことができないのです。「活動的な人」の落とし穴は「待機できない。見切り発車をする」ところです。主が動いてくださるまで待つことができないのです。ペテロのこの音頭取りに、他の数人弟子たちも「私たちもいっしょに行きましょう。」と呼応するのです。目的を失っている弟子たちの動揺が伺えるところです。もう一人の助け主が現れない限り、教会は始めることができないことを教える部分でもあります。

●ヨハネは本福音書でキーワード・キーセンテンスを文中に残し、黙想のきっかけ作りをしています。ここでは20章で出てきた「炭火」がそれにあたります。20章で、ペテロは、裁判を傍観していた時も、さらにイエス様を否認していた時にも、彼は敵の用意した炭火のそばにいました。無論イエスの顔を直視できるはずがありません。彼の体は温まったかもしれませんが、心は冷え切っていたのです。ところが本章で出てくる炭火はイエス様が用意してくださった物です。ずぶぬれになった自分に暖を取らせる為であり、これもイエス様が先に用意してくださった魚を焼く為でもあります。体は芯まで冷え切っていましたが、心は温かく満たされていたのです。また、ペテロは。炭火越しにイエス様の顔をまじかに見ることができたのです。この2か所の炭火を通し、私達が如何なる失敗をおかしたとしても、変わらない愛をもって私たちを受け入れてくださる主なる神様の姿を見ることできるのです。

●イエス様は「わたしを愛するか」と三度もペテロに尋ねるのです。日本語では「釘をさす」という言い回しがありますが「念を押す」という意味です。三度尋ねるのは、丁度、イエス様が十字架で打ち込まれた釘の本数と同じです。自分の直感だけで生きてきたペテロに、日々己を十字架につけ、父なる神様の庇護のもと、子なるイエス様が礎石となった教会を聖霊なる神様の助けのもとに建設していくことを、誓わせたものと思われます。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。そしてここでは「羊を飼いなさい。羊を牧しなさい」と、復活されたイエス様が地上生涯で叶えることのなかった教会建設をペテロに託した言葉でもあったのです。