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ヨハネの福音書20章

ヨハネの福音書20章

=本章の内容=

復活のイエス様に出会った人々➊マグダラのマリヤ➋トマス

=ポイント聖句=

そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。(20:22)

=黙想の記録=

●マグダラはガリラヤ湖北西岸に位置する、ガリラヤの都市の一つです。ガリラヤ湖北部のカペナウムからは約10km、エルサレムからは約190km地点にあります。漁業の盛んな地でした。ガリラヤはギリシャを始めとする他国人との交流が盛んなところで、エルサレム程の厳格なユダヤ教が根付いていないところで、様々なモラルに問題があった地域の様です。マグダラのマリヤはルカ8:2では「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女」と表現されていますが、具体的にはどんな状況にあったのかは詳細がありません。マグダラの性的モラルの低さから、このマリヤが淫乱の霊に憑りつかれていたのでは、場合によっては娼婦だったのではと推測する方もいる様です。してみると、あの香油はこの時期に稼いだ多額の金で購入したものではないかとも思われるのです。初期の段階からイエス様一行にずっと加わっています。十二人の男性弟子にはもちろん数えられていませんが、彼女もまた、重要な弟子のひとりであったことには違いないのです。でも、考えてみれば、彼女には懐かしい故郷と呼ばれる場所がなく、帰宅できる実家もなかったのではないでしょうか。これはちょうどルカ17章に登場するツァラアトを癒されたサマリヤ人同様で、彼女にもイエス様以外に帰るところがなかった言えるのです。彼女はイエス様の十字架刑の時も、埋葬の時にも片時も離れることはなかったのです。ですが、イエス様が十字架に架かり、死も埋葬も確認し、悲嘆に暮れているところに、墓が空っぽでイエス様の遺体さへ失ってしまうのです。この絶望的な状況に涙も枯れ果てて、空虚な思いが、彼女を座り込ませてしまったのでしょう。

●イエス様はご自身のお姿を男性弟子には現さず、このマリヤに最初に出会ってくださったことで、私たちに教会の新秩序つまり「男女平等」をお示しになってくださいました。イエス様から声を掛けられたマリヤの心境はどれほどのものだったでしょう。彼女がイエス様に縋(すが)り付こうとした気持ちも十分理解できます。彼女はもうこれ以上イエス様をどこにも行かせたくなかったのです。この地上に縛りつけておきたかった思いは彼女だけではなく他の弟子達も同じでした。イエス様は彼女のこの人間的な思いを察してはいましたが、父なる神のところに戻ることで、聖霊が助け主として来るという秩序を守らなければならなかったのです。マリヤの手を振り払ったのはこの理由からなのです。

●考えても見てください。十字架での大事業を終了し、復活によって、神の子であることを証明したのです。これからは不死の身体をもって弟子たちと共に教会作りを楽しめばいいではないですか。しかし、教会の礎石になったとしても、教会建設はご自分の任務ではありません。もう一人の助け主「聖霊」の仕事です。それ故に、聖霊なる神に一切を任されなければなりませんでした。それは父なる神様が、断腸の思いで子なる神をこの世に送ってくださったことと同様です。弟子達に今生の別れを告げるのは、とてもお辛いのですが、この思いも断ち切って、これから聖霊なる神様にバトンタッチされるのです。しかし、この時の弟子達には、聖霊を受ける実感が伴いません。息を吹きかけられたのは、聖霊の存在を明らかにする為でした。

●トマスは他の弟子が復活のイエス様に出会った時に運悪くその場に居合わせませんでした。トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」との言葉に込められていたのは、自分だけその現場に居させてもらえなかった疎外感でした。イエス様が「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 と語られた言葉には、トマスの欠点「人のことを信じない」を指摘されていたのです。でもこれは、新しい共同体では、無用の性格です。教会での新秩序の一つは、主にある兄弟姉妹との霊的一致です。兄弟姉妹を信じる心なしに教会は発展しないのです。