ヨハネの福音書19章

ヨハネの福音書19章
=本章の内容=

➊総督官邸で➋十字架とそれを取り巻く人々➌埋葬

=ポイント聖句=

そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。(19:38~39)

=黙想の記録=

●本章は十字架がメインテーマのはずですが、同時に人間の本性と最後のあがきをしているサタンの様子を知ることができます。兵士達が、イエス様を愚弄するだけでなく、お体をとことん痛めつけている様子を映画「パッション」で見ました。欧米では上映中に失神してしまった方も多数いたそうです。いばらはギリシャ語で「アカンサ」。旧約では38回、新約では14回も使われてる言葉です。不毛な土地の代名詞として使われています。いばらは長い棘をもった植物の総称です。日本ではバラほどの小さな灌木のイメージがありますが、イスラエルでは、その陰で休憩を取ることができる大きな灌木です。18章で旧約に登場するケデロン川に関する記事を使いイエス様の受難の意味を暗示してくれましたが、本章ではいばらがそれに該当します。士師記9:14=16で「そこで、すべての木が茨に言った。『あなたが来て、私たちの王となってください。いばらはもろもろの木に言った、『あなたがたが真実にわたしを立てて王にするならば、きてわたしの陰に難を避けなさい。そうしなければ、いばらから火が出てレバノンの香柏を焼きつくすでしょう』あなたがたがアビメレクを立てて王にしたことは、真実と敬意とをもってしたものですか。あなたがたはエルバアルとその家をよく扱い、彼のおこないに応じてしたのですか。』とあります。このアビメレクはギデオンの側室の子供で、異教文化にどっぷりとつかった人物。さらにギデオンの70人を暗殺した悪王です。イエス様にこのいばらの冠を被せ紫色の上着を着せたと言うこは「イエスは悪王の一人」であることを主張するサタンの攻撃の一つです。ピラトも兵士たちもこれを知る由もありませんでしたが。

●この総督邸での裁判は、ピラトの政治的駆け引きであることを18章で述べましたが、「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」」と言う言葉の舌下にあるのは、「わたしと組め。そうすれば死を免れる」という誘導の言葉なのです。しかし、イエス様のあまりにも潔癖すぎるご様子から、「この男に利用価値なし」と値踏みをし、体裁よく、この場から追い出してしまうのでした。たかが宗教上のいざこざ位にしか感じていなかったピラトですが、威風堂々と自分に臨むイエス様の態度は、さすがにピラトが今までに経験してきたタイプの人物ではありませんでした。ユダヤ教の大祭司を筆頭に宗教指導者の様に媚びへつらうことなどないのです。群衆から「神の子」と言う言葉で一瞬たじろいだのは、この裁判がローマに対する反逆罪を問うものではないと分かってしまったからです。ローマを憎む群衆から、「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。」との言葉が出ると言うことは、ローマ人のピラトにしてみればユダヤ人の手玉に取られた以外の何物でもありませんでした。イエスと組して、指導者を一掃したかったのに、それができない今、一掃されるのは自分であると知り身震いするのです。ピラトは最終判決を下していません。ユダヤ人のなすが儘にすることでその場を切り抜けようとしたのです。

●ご自分で十字架の横木を背負って行かれたイエス様はすでにこの時出血多量で瀕死の状態でした。これもまた預言されていた呪いの十字架での死を阻止しようとするサタンの攻撃の一つでした。とうとう十字架に架けられます。イエス様は十字架上で七つの言葉を放たれますが、日本流に言えば辞世の句であり、遺訓です。ヨハネは、「イエス様の実母を自分に託された」という言葉と「完了した」のたった三つしか書いていません。あの勇敢さをアピールしたペテロはここにいません。十字架の側にいたのは、このヨハネと幾人かの婦人たちです。からからに乾ききった悪党たちに取り囲む中で、この光景は余計に「本物の愛」の姿を映し出しています。イエス様が乾くことで私たちが潤されるという原理も発見できるのです。最後の遺訓は「新しい人間関係を始めなさい」つまり「家族の以上の絆によって教会を始めなさい」ということでした。「完了した」ということばは、旧約聖書で人類救済の大事業がこれを以て完全な形で完成したことを宣言されたものです。

●イエス様は脛(すね)を折られることなくすでに死んでおられました。この時、体中の血液はほぼ出尽くしたと言えます。これは過ぎ越しで屠(ほふ)られる動物の血をすべて注ぎだす儀式にのっとたものです。これも預言の成就の一つです。

●アリマタヤのヨセフはサムエルが生まれた場所の出で、サンヘドリン議員の一人でした。大変裕福と思えるのは、エルサレムに自身の墓を持っていたことで分かります。しかし、これほどの有力者がイエス様の埋葬を願い出ると言うことは、他の議員たちを全て敵に回すと言うことで、命さへも危うくなるのです。またニコデモも埋葬に立ち会った一人でした。私達はこの場面で再確認するのです。イエス様に忠誠を誓った弟子たちはその場にいなかったのです。人間のパッションは消えうせます。ただ信仰だけが残ります。この様子がここに表現されているのです。