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ヨハネの福音書18章

ヨハネの福音書18章
=本章の内容=

➊イエス様の捕縛➋アンナス邸でのペテロ➌カヤパの前で➍総督官邸で

=ポイント聖句=

一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。(18:25)

=黙想の記録=

●ケデロン川はサムエル記第二15:23に出てくるキデロン川のことです。実の息子アブシャロムの謀反でエルサレムを追われたダビデ王と家来が渡った渓谷のことです。さらに歴代誌第二29:16で、宗教改革を断行したヒゼキヤ王がこの川で、人々に命じて各人の身や主の宮の汚れた品々を清めさせた場所です。これは国民に過ぎ越し祭に参加させるための準備でした。オリーブ山はエルサレムからこのケデロン渓谷を超えた東岸にありました。他の三福音書がオリーブ山のゲッセマネと表現していますが、本福音書だけは、ケデロン渓谷を渡ることをわざわざ記録しています。ダビデやヒゼキヤによるこの経験は、イエス様がこれらの人物の追体験をしたとはいえないでしょうか。人々には宗教指導者によって「都から追放された様に思える」ことも、実は「民の清めの業」がここから始まることを暗示しているのではないでしょうか。ユダがこの場所を知っていたと言うことはサタンも知り抜いていたはずです。サタンはこのイエス様の意図した行動をも滅茶苦茶にしたかったのです。さらにゲッセマネの園は城壁も囲いもない大変無防備な場所でした。この時点ではすでに臨戦態勢に入っているはずなのに、イエス様の選択された場所は、敵との対戦場所とは到底思えません。一般民衆に危害が及ばない所を敢えて選んだとは言えないでしょうか。もちろん天の軍勢も加勢に来ていないのは明らかです。この無抵抗であることがサタンへの勝利だったのです。

●「誰を探すのか」の問いに「ナザレ人イエス」と捜索隊が答えます。その直後に自分のことでは命乞いしていないのに、弟子達の為には「この人たちはこのままで去らせなさい」と彼らに頭を下げるのです。この世の統治者のほとんどは、こうした場面に出くわすと、一兵卒を前線に出し自らは最も安全な場所に身を隠すものです。しかし、これもまた神の子の神性なのです。目には見えていないことが多いのですが、危機が迫る時、また困難に翻弄されている時、その矢面に立っておられるのが、私たちの主なのです。弟子たちの様にその現場から逃げ出すことがあっても、私たちの主は、問題解決をたった一人でも実行しておられる方でもあります。
●他の弟子たちが蜘蛛の子を散らす様に逃げ出したにも拘わらず、シモンペテロは勇敢にも武器を持って捜索隊に向かっていきます。多勢に無勢(たぜいにぶぜい)。しかも武闘の達人とド素人です。初めから叶うわけがありません。不幸中の幸いは、ペテロは相手に傷を負わせることはあっても殺人までは犯しませんでした。イエス様にとっては、敵はサタン。自分を捕縛するために来た人も救いに導かなければならない者達だったのです。こんな緊迫した中で、負傷した捜索隊の一人を癒されたのです。ところが「マルコス」は大祭司の奴隷の一人で武器を持っていなかった可能性があります。もしそうならば、ペテロは強者の兵士を相手にせず、弱い者を狙ったことになります。私から言わせてもらえれば、「勇者である振りをしている弱虫」がペテロです。イエス様が無抵抗でそこにおられたことの真意をペテロは全く理解していません。

●ペテロは大祭司カヤパのいたアンナス邸まで人々に紛れ込んでくっ付いていきました。この場に及んでもペテロにはイエス様が形勢をひっくり返し、大逆転劇を演じるのではという望みがあったように思われます。ところが、三人もの人物に素性を明かされ、卑怯にもその場から逃げ出すのです。これでは、他の弟子たちと五十歩百歩なのです。大祭司たちにいたぶられていたイエス様をよそに、炭火で暖を取っていたのは紛れもなくペテロです。こんな状況は、大袈裟な言い方をすれば、裏切者のユダとも気持ちの上では大差がないのです。この「炭火」はガリラヤ湖畔でイエス様と再開する時のキーポイントにもなっています。

●総督官邸でのピラトはなんとかイエス様を延命できるように健気な努力をしているように思えます。しかし、見方を変えれば、ユダヤの人心を最大限引き寄せている人物であり、目の上のたん瘤であった時の宗教指導者の口を封じる有効打が目の前のイエスであると彼は算盤を弾いたとは言えないでしょうか。イエス様をあくまでも政治の具に使おうとしていたのです。イエス様がピラトに命乞いをしピラトと結託するならば、ローマ兵を使って武力鎮圧も辞さなかったのです。「あなたはユダヤ人の王か」「真理とは何か」の問いや「バラバの釈放」は、イエス様から政治的結託を引き出すための方便だったとは言えないでしょうか。しかし、彼の目論見は、イエス様の無言の言葉によって断ち切らてしまいました。イエスとは組することができないとわかるや否や、彼は、事を荒立てないために、その場をやりすごすのです。ピラトを通して行われた、サタンのイエス様に対する駆け引きは、この無言の言葉によって潰えてしまったのです。