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ヨハネの福音書16章

ヨハネの福音書16章
=本章の内容=

➊患難が起こる➋聖霊の助け➌しばしの別離➍保護者となる父なる神

=ポイント聖句=

その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。(16:26・27)
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(16:33)

=黙想の記録=

●イエス様はご自分の十字架の苦しみを女性の陣痛になぞらえて説明されました。この様にイエス様は自然現象を題材にして説明されることが沢山あります。逆に言えば、自然現象にこそ、神様のご性質やご計画を学べる良い教材はないのです。そもそも陣痛とは、どのような物なのでしょう。陣痛を一言で言うなら。胎児を外へ押し出すために繰り返される子宮の収縮のことです。この収縮の時に張りや痛みが起こります。これが陣痛です。陣痛は大きく分けて3種類あります。第一の「前駆(ぜんく)陣痛」は、出産前に起こる子宮収縮です。通常、出産の1ヶ月くらい前から、不規則におなかの張りを感じることが多くなります。本格的な陣痛の準備段階です。第二の「本陣痛」は、正期産に入る37週を超えたらいつ始まってもおかしくありません。最初は子宮収縮の間隔が不規則で痛みも強くないのですが、やがて規則的になり、しっかりした痛みを感じます。第三の「後(こう)陣痛」は、出産後、大きくなった子宮が元に戻ろうと急激に収縮するために起こる痛みのことです。特に本陣痛の場合の痛みは「鼻からスイカが出るよう・腰の骨が砕けそう・指を切断したよう」な痛みと表現される程です。イエス様は十字架の痛み苦しみを説明されるために「陣痛」を用いたのではなく「しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます」という言葉を通して、十字架の苦難で成就する「新生の業」を主なる神様が如何にお喜びなるかを説明されたものです。

●本章ではイエス様がもう一人の助け主である「聖霊なる神様」について、そのご神性やお働きを説明してます。第一の働きは「罪、義、さばきについて」人々の考えを是正されることです。「罪」とは個々の犯罪などを言っているのではなく、神様に背いた生活を送ることを指し、「義」とは、人間が達成できるようの正しい生活のことではなく、イエス様の贖罪の御業そのものを指し、「さばき」とは始めにこの世の君であるサタンに対して行うものであり、次にキリストを受け入れない結果、人が自分自身に招くもののことを指しています。第二の働きは「真理」を教え導くことです。真理とはイエス様に備わっている全てのご人格を指しています。したがって、導かれるとは「イエス様の足跡に倣うこと」なのです。第三の働きは「子なる神の栄光を現す」ことです。これはとても重要なことです。聖霊なる神様は、ご自身を主人公の位置に据えることは絶対なさいません。聖霊なる神様は基督者が「子なる神に倣う生涯」となるように絶えず導いておられます。イエス様の姿が基督者に反映させることを通して、栄光がイエス様に帰するわけです。また、自らを主人公としない仕える者の姿を取ることで、基督者にご自身のご性格を基督者に反映することにもなるのです。「聖霊よ」と聖霊なる神様に祈り求めることや「聖霊を主人公とする集会」にとても違和感を覚えます。聖霊によって願い求めることはあっても、聖霊に向かってではなく、「父なる神様にイエス様の名によって」という秩序があるからです。ところで、イエス様だけが受難を経験されたのでしょうか。父なる神様にとって、イエス様をこの世に誕生させることに痛みはなかったでしょうか。また十字架で受難させることに激しい痛みを感じなかったでしょうか。さらに聖霊なる神様はどうでしょうか。私達肉体に宿ることに痛みはないでしょうか。肉の欲に直面することに痛みはないのでしょうか。こうした意味で言うなら、聖霊なる神様は日々に十字架の苦しみを経験なさっているとは言えないでしょうか。この三位一体の神様が永遠の滅びから救い出し、日々救い出してくださっている事実を再確認しましょう。

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