ヨハネの福音書15章

ヨハネの福音書15章
=本章の内容=
➊ブドウの木と農夫➋良い実とは互いに愛すること
=ポイント聖句=あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(15:8)
=黙想の記録=●「わたしは~です」の「~」にあてはまる単語が15章で完結します。それらは①世の光(1:5)②いのちのパン(6:35)③羊の門(10:7)④良い牧者(10:10)⑤よみがえり・いのち(11:25)⑥道・真理・いのち(14:6)⑦まことのぶどうの木(15:1)の7箇所でした。
●14章にあった「道・真理・いのち」ですが、この3つの単語が一括りになっていることには意味があります。この3つの単語の対義語があるとすれば「迷路・虚偽・滅び」でしょうか。つまり、「いつもふらふらして芯のない生き方をして、思い込みで人生を生きているために、自分をごまかしたり、他人にウソをついたりしても平気になってしまい、自分さへ幸せなら他人のことなどどうでいい」という生き方のことです。ところがイエス様が仰られている「道・真理・命」とは「正しい道に導かれていれば迷いは起こらず、間違えのない真実を追求しているならば平安があり、自分をも他人をも活かすいのちを持つことができる」とでも言い換えられるでしょうか。「イエス様を救い主と信じるところからスタートし、イエス様の生涯に倣って生きるなら、地上でもまた永遠でも本物のいのちで満たされる」とも言い換えられます。
●基督者の場合、「信仰」ではなく「依存症」になっている場合があります。ギャンブルやスマホやSNSなど特定の行為によって得られる刺激や安心感にのめり込んでいく「行為依存」と呼ばれている者です。この行為依存をうまく利用しているのが「カルト」と呼ばれているものです。
●「わたしはまことのぶどうの木」とのイエス様の譬えはとても明確です。それは、「イエス様の人生をなぞる生き方をするとき、新しいいのちがいつでも供給されてくる」という原理のことで、これが「信仰」と呼ばれる物です。ところが、イエス様ではなく「特定の人」「特定のグループ」「特定の教義」に固執することが習慣化するあまり、その明らかな現象として、優越感に浸って他者を見下す様になったり、排他的になっていきます。これは紛れもなく「依存症」に陥っていることになります。謎っているのがイエス様ではなく「人間」だからです。また聖書ではなく「人間の言葉」だからです。●時々「だれだれはこう言っている」あるいは「だれだれの格言」として文を掲載する行為の中にも依存症が潜んでいることがあります。その人物の言動に遠く及ばないくせに、その言葉を用いることであたかも自分が代弁者となっていると錯覚し、または背伸びしているのです。結局これも人間に依存してことになります。
●「良い実」を成らせるには、イエス様にいつでもつながっていること。見てくれや身の丈を気にすることなく、ありのままで。分からないことを分かったふりをするのをやめましょう。習慣化するのは、毎日神様との交わりつまりデボーションです。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」とは、あなたが悪い実を実らせたり実を結べなかったらイエス様から切り離し切り落とすという意味ではありません。「試練」は「訓練」です。良い実を成らせるために余分なものを切り離す農夫の作業なのです。様々な肉の欲求が、いのちの供給を妨げることがあります。それを切り離すためのものです。